教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

2014年11月

10年先のために~荻生徂徠の経営学(日経BP)

荻生徂徠の経営学
舩橋晴雄
日経BP社
2010-03-18


 冒頭で紹介されているソニー共同創業者盛田昭夫の

『Made in Japan』の一節を読んで,私が感じたことは,

公立学校の校長たちにも伝染している悪病があるということです。

>見返りを利益でしか考えないアメリカの経営者がよく口にする言葉がある。「これから数年先に,私の後釜に座る人間のために,なぜ私が今,目の前にある私の利益を犠牲にしなくちゃならないのだ?」。欧米では有望な商品を,開発費がかかり過ぎるという理由で見送る経営者が多い。

 公立学校では,全国学力調査の結果をよくすることが最もわかりやすい経営目標になってしまっています。

 10年先,20年先に効果が現われてくるような,地道な取組みが行われてきた小中学校ではやっているのは,「すぐに効果が出る学習」のようなものです。

 そんな学習は,「すぐに効果がなくなる」ものに過ぎないのに,数字がよくなること・・・・まるで株価が1日上昇することに喜びを感じるような・・・・ばかりに気を取られている経営者たち。

 たしかに,管理職にしろ,教員にしろ,公立学校には異動がある。

 ろくでもない荒れた学校に異動させられたとき,

 「立て直すのに最低は3年かかる。その先のために今できることは・・・」

 と必死に将来を見据えた行動をとれる教師はどれくらいいるのでしょう。

 さて,この『荻生徂徠の経営学』からは,実に多くのことが学べます。

 江戸時代に問題視されていたことが,今でも解決されていないことには,

 どのような背景があるのか。どんなに時間がかかっても,解決できない問題なのか。

 解決できないから,そのままにしておいてもよいというのか。

 教訓を受け取っていきたいと思います。

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内田樹のわかりやすい「いじめ」の定義~内田樹の大市民講座(朝日新聞出版)

内田樹の大市民講座
内田 樹
朝日新聞出版
2014-11-20


 内田樹による「いじめ」の定義は広いものです。

 マスコミによる「学校たたき」も,「いじめ」の一種となります。

>「いじめ」は精神的に未熟な人に固有の現象である。

 それはその通りかもしれませんが,精神的に未熟とは

言えない人の中にも,「それらしい立場」になってしまった

そのときに,「成熟」ではなく「未熟」に逆戻りしてしまう

傾向があることは多くの方がご存じでしょう。

>反論も反撃もすることのできない人間を,猫がネズミをいたぶるように,じりじり追い詰めることから嗜虐的な快感を引き出している人間の顔を私たちはよく見知っている。それは「級友をいじめている子供」の顔である。私自身は「管理責任はどうなっているんだ」と大学に怒鳴り込んできた「クレーマー親」たちの表情のうちに繰り返し同じものを見た。

 私の場合は,ごく一部ですが,教育委員会の事務局の

「偉い人たち」からこの臭いを嗅いだことがありました。

 「それらしい立場」の人たちには,「組織の存続のため」という

大きな使命があったからかもしれないのですが,その「組織」

のメンバーに自分が入っているか,そうでないかを考えれば,

 「いじめ」とは「仲間はずし」という明確な目的をもった行動

であると定義することもできそうです。

 共同体の内部でお互いに「仲間はずし」をし合っているような

人間が,最後にどのような立場になっていくのか。

 共同体はどうなっていくのか。

 「いじめ」はいじめられた個人の救済が最優先となってしまう

ので,その先に見るべきものが何かを忘れないようにしたいものです。

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英語の翻訳に「完璧さ」を求めるのは酷か~英会話不要論(文春新書)

英会話不要論 (文春新書)
行方 昭夫
文藝春秋
2014-10-20


 小学校英語の導入は,日本人の言語能力を
 
 損なう結果になる・・・・科学的に証明されても,

 国の政策は変わらないかもしれません。

 英語の意味を解釈するのに,日本語で何というか,

 その候補は何で,どの日本語が最も適しているか

 がわからない人に,英語でのコミュニケーション

 がとれるとは言えない,ということです。

 私が強い印象で覚えているのは,大学1年の

 英語の授業で,講師だった人が誤訳をしたこと。

 その講師は英語は話せるのかもしれないけれど,

 日本語の語彙が乏しく,正しい解釈ができていない

 ことに,いらだちを感じました。

 英語に堪能だから英語の講師ができているのでしょうが,

 日本語の部分がひどい,という人が「英語の教師」

 でいられるというのが当然の世の中になりそうなのが,

 小学校英語必修の流れです。

 I am a Cat.  という英語で,夏目漱石の小説の意味は

 理解してもらえるのか?

 そういう心配ができるような人が,

 「英会話が苦手」「英語が苦手」という感覚をもてる

 わけです。

 異文化の人々の言語を,抵抗なく受け入れて

 話せる人を増やすことは大切なことかもしれませんが,

 それを自国の文化の理解~その最も重要なことが

 日本語の理解であるわけですが~を犠牲にして,

 異文化の言語を学ばせるという教育政策は,

 宗主国に媚びる植民地の現地経営者根性のようだ

 と言わざるを得ません。

 この I がさしている日本語と,『ガリヴァ旅行記』の

  I は同じようなものであるはずだ,

 という感覚をもてる人ではないと,

 英語というのは実に薄っぺら・・・それでいいのですが

 ・・・な言葉という印象が強くなります。

 薄っぺらだからこそ,英語を母語としない多くの人々が

 使えるのだなあと思うわけです。

  つまり,英語を話せるようになることは,それほど

 難しいことではないわけです。しかし,母国語への

 感性が高い人ほど, 「英語をぺらぺら話す危険性」

 を肌で感じられるのです。

 では,日本人は英語を学習しなくてもよいのか。

 もちろんそうではありません。

 日本の文化を学ぶのに最も有効な方法の一つが

 日本語を学ぶことであるように,異文化を学ぶ方法の

 一つがその国の言語を学ぶことです。

 「使えることが大切」な会社に入るときに,最低限の

 語学力がついていれば,あとは会社にいるときに

 必死に学べばいいのではないでしょうか。

 それが給料や昇進に反映されるとなれば,

 必死で習得できるようにがんばるでしょう。

 ほとんど入試のためだけに学ぶ英語で,モチベーションが

 持てる人は少数です。
  
 楽天やユニクロの「大実験」が,

 「実は英語を話せるようになることよりも,

 日本人に不足しているという懸念があった

 思考力・判断力・表現力・・・もちろん自国の言葉の

 ・・・が身についていることの方が大事だった」

 ことを証明してくれるようになれば,

 学校英語の動静にも影響を与えることに

 なるのでしょうが・・・・。

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受験勉強の中にも「新鮮な発見」を~「いい仕事」をする人の45の極意(ダイヤモンド社)



 中学受験,高校受験への準備には,大手の塾に通い,塾がつくっているテキストで学ぶことが近道であると考えている人が多いでしょう。

 そのテキストで学んだ多くの小中学生が志望校に合格していくわけですし,私立学校の教師の中には,大手の塾でアルバイトをしている人もいるでしょうから,「最も詳しい情報」を握っているところが塾であることは,まぎれもない事実でしょう。

 合格実績という「数字」によって,「いい仕事」がなされていることも証明されています。

 しかし,塾に通う子どもが大幅に増えれば,「合格率」は下がっていく,というのが現実です。

 点数がとれる子どもが増えれば増えるほど,中学校,高校側にとっては優秀な子どもが合格するようになりますから,おいしい「変化」です。

 受験学力で問題になるのは,果たして「点数がとれる子」が本当に「優秀」であるのか,入学後も期待に添うような学力向上を実現してくれるのか,ということです。

 「いい仕事」の本質は,合格後の「伸び」という面で問われるべきだという考え方がありますが,本人の努力や資質も含めて,多くのことが原動力になって人間は成長していきますから,「これのおかげ」と特定するのは難しいですね。「合格者の声」といった振り返りである程度のアピールすることは可能でしょうが。

 近い将来,「知識」の量と「思考力」という質の相関関係が脳科学か何かで明らかになっていくのでしょうが,受験勉強というのは,「出る問題」とその「解き方」に関する知識で成立してしまう部分が多いことが特徴です。

 受験問題は,点数化して合否判定を行う客観テストであるため,「こういう考え方もできるし,別の面から着目して180度異なる考え方も提示できる」ような能力は問われないのです。

 単純な記憶量が多いだけで解けてしまう問題はつくる側も楽なので,多量の作問を行う場合は特に,「落とすための問題づくり」という意識が作問者側に働きます。

 では,そうではない「受験問題」はないのでしょうか。

 期待したいのは,中高一貫校の「適性検査問題」です。

 これ,「学力検査」ではありません。中高一貫校の選抜で,「学力検査」を行ってはいけないことになっています。

 ですから「適性検査」であるはずなのですが,普通の人が見れば,明らかに「学力検査」です。

 真の意味での「適性検査」問題にするためには,作問者側に相当の能力が求められます。

 採点間違いという単純なレベルではなく,あとあと問題に「キズ」があったことが分かってしまうと,不合格者の中に「本当は合格者だった」子どもがいたことがわかって,様々な手当が必要になってしまうケースも考えられる。

 「学力検査」では「キズ」になるはずのものを,ぎりぎりでかわせるのが「適性検査」問題ではないか,というのが私の考えです。

 本来,無関係に思えるような単語と単語の関連を想像させて,ある問題の解決を訴えるようなストーリーをつくりなさい,なんていう問題も「適性検査」ならアリでしょう。

 では,問題です。

 「蚊」と「ビニール袋」。

 ・・・・こういう事例を考えると,やはり「知識」も大切なのだなということが分かるかもしれませんが・・・。

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迷走しかない英語教育~「踊り場」日本論(晶文社)



 語学とは,それを使って「伝えたい」という強い熱意が
 
 あって,学べるものだ,という主張はその通りでしょうね。

 大昔の日本人(「倭」の国の人だったころまで遡っても)

 もみんな。日本人の多くが「学校で習っても英語が話せない」

 一番大きな理由は,「英語で伝えたい」という意思がないから

 にすぎません。

 現在になっても,英語で話しかける人とほとんど出会えない

 環境にいる人が圧倒的に多いからです。

 

 私は英語教育について,もっと教養的な色合いを濃くしてほしい

 と願っている(読むことも立派な創造的思考を伴う行為

 なのに,話すことの方に重点がいきがちになっている)

 立場ですが,「話せる英語」の方向へとシフトしている。

 入試も,変わろうとしている。

 こんな一節があります。

>TOEICがなぜ必要なのか,なぜ英語を学ぶのか,

 なぜ外国語を学ぶのかって順繰りに考えて行ったとき,

 そもそもの根っこにある,「僕たちはそもそも本当に

 自分の頭でものを考える人間をつくりたいと思ってる

 のか」っていう大問題が浮上するわけです(岡田憲治)

>(試験制度を変えることに関して) そういうところを

 直せば,それに合わせて人間のでき方が変わって

 くるんだっていう発想の恐ろしさですね。

 こういう判定基準を作るとそれに合わせて受験生は

 自分を作り変えてくるはずだと(小田嶋隆)


 
 英語教育に限らず,日本の「教育」は,

 「迷走せざるを得ない」というか,

 「迷走することが運命づけられている」,

 そんな「装置」だということに多くの人が

 気づくようになってきた。

 「制度に従って人間は変わる」なんていう発想は,

 グローバル人材をつくるとかどうとか主張できる

 レベルのものになっていない。

 英語の先生もお気の毒ですが,最もかわいそうなのは,

 学校で英語を学習しなければならない子どもたちです。

 中学受験に英語が導入されたとき,

 またどのような風景になるのでしょうか。
  
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