教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

2014年12月

教師のための教育~今こそ社会科の学力をつける授業を(さくら社)



 昨年お会いしたときはお元気そうだった有田先生ですが,今年(2014年)の5月にお亡くなりになりました。
 
 私自身は一度も授業を拝見したことがありませんが,著書の多くは中学校で社会科を教える上でも参考になったので,拝読させていただいております。

 小学校の教師は,教育実践にあこがれることはもちろんですが,実践を行っている有田先生のような個人にあこがれるといった傾向が強いようで,この本(内容は,日本図書文化協会『指導と評価』の連載が再掲されてるもの)もファンが有田先生から学んだことが紹介されています。

 小学校の教師は,学校現場では「町の商店街の店の社長」のようなところがあって,けっこう孤独な思いをしている人が多いのだろうと想像できます。職員室より担任してくる教室の自分の机の方が落ち着く,という人も少なくないのでしょう。

 有田先生の授業は,教師が参観して楽しめるような「内容」だったことが,魅力の一つであることが読むとよくわかります。「小学校では何を学んだのだろう」と不思議な思いを抱く中学校教師からみると,テレビのクイズ番組で楽しんでいるような子どもたちを想像すると,なるほどな,と感じてしまうのです。

 私が残念に思うことは,有田先生の目線の先にある「ネタ」は,小学生というより大人が「なるほど」とうなるようなものが多く,有田先生のようなベテランでないと浮かんでこないような発想が多いのと,教科書通りに学ぶのは大嫌いという子どもが対象でないと,なかなか成立しないのという難点です。

 この本では「有田実践を追試」した先生がいらっしゃるようですが,有田先生ご自身は,「人の真似」をすることは大嫌いでした。有田先生から叱られたという先生のお話も聞いたことがあります。

 ですから,「ご自分の真似」をされることは本当は好まなかったことであり,「ネタは自分で考えろ」というメッセージが先生の最も重要な「ご遺言」だと私は思っています。

 20~30年たっても,「有田先生のような先生」が生まれないのはなぜでしょう。

 有田先生が教えているのは「姿勢」であり,「内容」ではないのです。

 それは,教師は他人が「育てることができない」存在だということを有田先生ご自身がわかっていたからかもしれません。

 ここに,私がかつて本編で記した文章を引用します。有田先生は,「未来を生きる子ども」や「未来の教育を変える人間」を育てていらっしゃったのだと,私は思っています。

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 「浅い思考」と「深い思考」の違い(2013年11月1日)

 人が成功するか,失敗するかの違いは,どうして生まれるのか?
 その人のもつ「運命」か?

 まわりの人たちの「環境」「関係」か?

 あくまでもその人の「能力」か?

 たぶん,そのうちのこれしかない,ということではないだろう。

 「定石どおり」の攻め方ばかりをすると,相手もその「定石」を踏まえていれば

 すぐにばれてしまうから,

 どこかで「意表を突く」こともしなければならない。

 相手を混乱させることも,戦いでは「定石」となる。

 ここでは孫子の兵法にじっくりふれたいところだが,今日はやめておく。

 「定石」とは,こういうことだ,と読んで字のごとくにうけとる「浅い思考」をしているうちは,

 まだまだ「達人」の域にはほど遠いということである。

 「深い思考」とは何か?

 それは,まずは成功するか,失敗するかの違いはその人の「思考」のあり方が決めている,

 という認識を出発点にして, 「多くの人がよしとしていること」にも

 疑問を投げかけられるような態度が必要である。

 これは,特に教師にとって必要な資質・能力であると考えている。

 小学生が,ある独創的なアイデアを思いつき,それを教師が

 「そういうことは,これこれこういう理屈に基づいて言えば,間違いですよ」

 とたしなめてしまったとする。

 その子どもにとっての成長の芽は摘み取られてしまったかもしれない。

 しかし,「それは間違いですよ」というのをためらいもなく子どもに投げかけてしまうタイプの教師は少なくない。

 多くの子どもは,教師たちの無自覚によって,「浅い思考」・・・・特に,教師に気に入られるか,教師に認められるかどうかを基準にする・・・しかできなくなっていく。

 大人も,「浅い思考」の典型的な話しかしないから,子どもは「思考とはそういうものだ」と思い込むようになってしまう。

 教師の資質能力,態度,表現は,子どもの将来を大きく左右しかねないものである。

 私たち教師は,自分がいかに子どもの成長の芽を摘んでしまっているか,いつでもふり返って「思考」する癖をつけておかなければならない。

 世の中は,「定石」が通用しない社会にどんどん移行していく。

 先が長い子どもたちには,そういう社会を生き抜くための「定石ではない定石」を教えてあげることが大人のつとめである。

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 有田学級の子どもたちは,「有田先生が喜びそうな答え」を探すのに慣れていきます。

 それは,「普通の先生が喜びそうな答え」とはかなり異なるものです。

 一般の教師から見れば,「大きく的を外している」子どもが高い評価を受けるので,特に中学校の教師からすると,「もったいない」の一言に尽きる授業も多いのです。

 子どもたちにとっては,有田学級しか経験していないと,小学生としての基礎・基本を学ぶことができずに卒業し,進学後に苦労するという宿命が待っています。

 しかし,それは,「小学校としての基礎・基本とは何か」という大きな問いを示し続けてくれたという点で,先生は偉業をなされたと言えるのだと思います。

 
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専門家と学者の違い~「正しい」とは何か?(小学館)



 専門家と学者の違いを知ることは,私たちにとって非常に重要なことです。

 しかし,この2つの境界があいまいになるのが,教育の世界です。

 大学の場合,学生を前にして,教師は専門家と学者という両方の立場で接することになります。

 本来は,教育の専門家としての立場で接するべきなのですが,教員免許を持たずに教員になる大学の教師は,「教え方」を知らないことが多く,「教え方」を「教える」教師,「教え方」を「研究する」教師がいるくらいです。

 私が気になったのは,学生は教員というよりも,学者と接することを最後に,教育現場に入っていくということの問題点です。

 学者の研究していることを,そのまま学校現場で子どもに教えたりするのは,いかがなものか,という話です。

 教師は,学者ではなく,教員の専門家として教育を行うわけです。

 これは,医学の研究者が患者を治療するのではなく,医師が担当するのと同じ関係になります。

 学者は真理を追究することが使命であり,真理の研究のために,さまざま主張を行うことができます。

 しかし,専門家という立場になると,その発言によって人が動くことが多くなるため,責任が生まれます。

 著書では,地震予知に失敗したイタリアの学者が,禁固6年の実刑判決を受けた事例が紹介されていました。

 学者の立場で「学問の自由をどう考えているのか」と怒ることは可能なのですが,実際には,「イタリアの防災庁付属委員会のメンバーとして,「大震災の兆候がない」と発言したことが問題だというのです。

 「専門家の立場」というのは,「学問の自由」とは別の話だということがとてもよく示されている話です。

 医学の研究者が,人間を実験台にすることはできません。人間を治療できるのは,医学の研究者ではなく,専門家としての医師なのです。ですから,大学の付属病院というのは,これまた微妙な場所ということになります。

 教育には,それなりの「理論」らしきものがありますが,まだ「正しい」と証明されたわけでもないものを子どもに教えるのは危険だということです。

 もしあまりにも「実験的」「先進的」と思えるようなものがあなたの子どもが通っている学校で行われている場合は,「正しさ」の論理で立ち向かうことができることをご参考にして下さい。


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全身を使った受験勉強~全身発想論(日経BP社)



 「脳」が優れていれば,難しい問題もスラスラ解ける,という言われ方をしたとき,すんなりと「その通り」と感じることができるかどうかで,まずはその人の才能が測れるかもしれない。

 何の抵抗感もなく「その通りです」と答えてしまう子どもがいたら,ぜひこの本に紹介されている「トレーニング」を実践させてあげてほしい。

 現在のところ,中学受験で「体育実技」があるところはごくわずかである。

 こういう中学校は,入試制度そのもので,学校がめざしていることをしっかりとアピールしている。

 体を動かすこともそうだが,この本の中で紹介されている「オノマトペ」が受験勉強に生かせないか,今,考えている。

 オノマトペとは,フランス語で「擬態語」「擬声語」という意味である。

 「サー・タン・パッ・トン」という言葉は,何を教えるときに使う効果的な方法かご存じだろうか。

 リズム感をもって一連の流れができると成功しやすいものがある。

 擬態語を使わずに説明するより,何倍も効果があるようだ。

 だから長嶋監督がバッティング指導の時に使っていた「ダーッ」「バシッ」などという言葉も,あながち「非科学的だ」などと蔑むべきものではないと思えてくる。

 易しい問題は,「スラスラ」解けると表現できる。

 大量に問題をこなすときは,「ガンガン」解け。

 よく耳にする言葉である。

 より繊細に,かつ正確に誤りの選択肢を消していくときは?

 図形問題を一瞬で解決に結びつけるための補助線を引くときは?

 複雑な条件を整理し,結果的には解き慣れた実験結果を導くときは?

 子どもたち自身に「発明」させたい。

 問題そのものにも「オノマトペ」を命名させてみたらどうか。

 「ゴツゴツした問題」

 「フワフワした問題」

 「ヒリヒリする問題」

 私自身の経験では,問題は,「脳」ではなく,「手」が解いている,という感覚を大事にしていた。

 鉛筆を持つ手と指が,勝手に解いてくれている状態を眺めているだけでよい・・・・そんな境地に子どもたちをさせてみたいものである。

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「余計なお世話です」と言える国民に~教育における経済合理性(NHK出版)



 もう14年も前の本になります。

 このころは,「ゆとり教育」のすばらしさがさかんに宣伝されていました。

 総合的な学習の時間の移行期間が始まり,「生きる力」を育てるための実践が模索されていたころです。

 今や,完全週5日制は批判の対象です。

 教育現場の,しかも公務員が,実質的に週6日働かされ,部活動の顧問に熱をあげている私などは,完全週7日制の毎日を送っていました。

 しかしその充実感たるや,計り知れないものでしたから,「土曜日には部活動をしてはいけない。大会を入れてはいけない」などという圧力が入ったときには,「嘘だろう」と思ったものです。

 部活動などは,別にだれかに強制されてやっているわけではない(むしろ,日曜日に試合を組んで,生徒には強制的に参加させていたようなところがありました)から,「土曜日に働かせないきまりは憲法違反ではないか」とさえ思った若い教師でした。

 一部,土曜授業は復活してきていますが,今では土曜日は教師たちが「堂々と仕事をしないでいい日」になっています。

 教師というのは,振り替えの休日が取りにくい職業なんですよね。

 土曜日出勤したら,次の月曜日に休みをとる,というわけにはいきません。

 時間割に授業が入っていますから。

 中学校の場合,もし,土曜日の出勤に振り替えることを想定して,授業を入れない日をつくると,授業がある日は1時間目から6時間目まですべて埋まってしまいます。これもつらい。

 長期休業中に休みをまとめてとるという方法も考えられますが,このときこそ部活がやれるわけですし,部活がない人でも,なかなか代休も消化しきれません。

 話が長くなりましたが,この本を読み返してみて,改めて,「教育改革」というかけ声は,いつでも絶え間なく繰り返される,「日常用語」だということがよくわかります。結局,何も変わっていないか,想定とは逆の方向に進んでいます。

 代表的な例が中高一貫校です。なぜ中高一貫校の選抜で,「学力検査」を行ってはいけないか,ご存じですか。なぜ「適性検査」とよぶか。そして,「適性検査」という名称で行われているものが,実際には「学力検査」以外の何ものでもないことを。「ゆとりのなかで生きる力を育てる」ためにつくられた中高一貫校が,今では激しい競争を勝ち抜いて残った子どもだけが入れる,「進学校」になっているのです。

 上記の本には,「英語の第二公用語化」問題への様々な人からのコメントが収録されています。

>余計なお世話でしょう

>「道具」としての英語

>深く世界を理解すること

>イングリッシュ・ディバイド

>文化と言語を競争にさらす

>全員が国際人になれるのか

>本人が努力すればいい

>変革すべきは英語教育そのもの


 14年たった現在,どれを読み返してみても,その通り,なるほど,というものばかり。

 「改革」を叫べばそれが仕事になる人のための「叫び」に過ぎないという気もしないではありません。

 小学校での英語の教科化は避けられないようですが,当然,中学入試に英語の試験が加わります。

 小学校での先生には気の毒ですが,中学受験組にとって,小学校高学年の授業というのは物足りなさを通り越して,寂しい気にすらなるものです。

 英語に関しては,それをはるかに上回ってくる状況が考えられます。

 学校外での英語学習のニーズは相当に高まる。

 商業的には大成功なのでしょう。

 こういう現実に,「余計なお世話です」と言える親がどのくらいいるのでしょうか。


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「道徳の話」は,「道徳の時間」にしないことが効果的~子どもたちが身を乗り出して聞く道徳の話(致知出版社)



 道徳の時間が大好きだという子どもはほとんどいない。

 道徳の時間の指導が大好きだという教員も少数派である。

 しかし,道徳の内容はたいせつだし,道徳的な指導をすることが好きな教員は多い。

 道徳の内容に関しては,「好き」とか「嫌い」の問題ではない。

 子どもは「そう生きることをめざす」ために教育を受けているわけだし,

 教員は子どもに「そう生きることをめざす」ように教育をするのが仕事である。

 しかし,道徳教育の主体として最も重要な存在は,親である。

 この本で紹介されているさまざまな「道徳的価値への誘導」を,道徳の時間に行うのはあまり適切ではない。

 それぞれの価値に気づかせる場面として最も適切なタイミングというのが,

 家庭や学校での生活のなかにはたくさん存在する。

 「何を話すか」はいくらでも材料があるが,

 「いつ話すか」が教育では一番たいせつである。

 道徳の時間のように,「きまった時間」にふれる情報には,子どもは

 「そんな大事な話は,もっと早くしてよ」とか,

 「そんな話は前に何度も言われたことがあるよ」という反応になる。

 担任の教師は,子どもを家庭に帰すまえに,必ず一言,生徒に語る場面がある。

 この本の内容は,そういう場面で最適なものもあれば,教科の授業のなかで行うものもあれば,

 教師より親から聞いた方がよいものもある。

 だから一般書として売られている本書は,教師よりも親に読んでほしい。

 この道徳の本の最大の特色は,紙芝居用のイラストがついていることにある。

>配慮 やられて嫌なことを他人にしない

 で登場する「イラスト」とは何だろうか。

 このタイプの指導は,たいてい,いじめとかケンカとかの事件の後で行うことが多いのだが,それは対症療法的生活指導といって,やらなくてはならないが効果はそれほど高くないものの一つである。
 
 本書では,「ナイフが肉を切る道具であるのと同じように,言葉も人の心を切ることがある」という意味に読み取れるイラストがついている。

 「言葉遣いに気をつけよう」「人の心が傷つく言葉を使わないようにしよう」「人に配慮した生活を送ろう」

 などと言葉で伝えるより,絵で伝えた方が届きやすいメッセージである。

 しかし,最後に一言。

 教師(親)が行う道徳指導には,最大の欠点がある。

 やってはならないことを教師(親)がやっていることを子どもが知っているということである。

 「本音と建て前」の日本文化を子どもは小さいときから知って育つ(ただし,少子化等の影響で,これを知らない・・・グローバル人材には最適かもしれない親や子どもは増えている)。

 学校教育における「道徳の指導」が,いかにも「建前の世界の話」に見えてしまうことが,とてもわかりやすい本書を読むと,よくわかる。

 「まずは親や教師が道徳的な行動を行うこと」・・・・教師と同時に親でもある私は強く願う。

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