教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

2016年07月

野球部=指示待ち人間養成機関?~週刊東洋経済

週刊東洋経済 2016年8/6号 [雑誌]
週刊東洋経済編集部
東洋経済新報社
2016-08-01


 野球の世界では,監督・コーチが絶対という。

 雑誌のインタビューで,ある会社社長が昨年のラグビー世界選手権での南アフリカ戦での出来事をひいて,野球界の特質を表現してくれている。

>「同点のペナルティゴールを狙いに行け」と言った監督の判断を反故にし,選手はトライを選んで勝利した。「あれは野球では絶対ありえない。野球は指示待ち人間養成所のようなところがある。競技人口の割に社長が少ないと感じるのはそのせいだ」と分析する。

 この社長さんが完全なる「指示待ち養成機関」を卒業した人間ではないことは,次のエピソードからよくわかった。

>特に27歳で独立した後,運動部経験のないデザイナーと仕事をするようになって鮮明に感じるようになった。「指示した直後に彼らが返事をしないことがあった。最初は腹が立ったが,返事をすることがすべてではないと感じるようになった。真剣に考えているから,すぐに返事をしないこともある」。

 「すぐにハイというバカ」という話も有名だが, 安易に「頑張ります」とか「やります」といった威勢のよい言葉にだまされた経験がある人は,おそらくそういう「積極的」な人を恨む気にはなれないだろう。

 しかし,「返事さえすれば,相手の機嫌を損ねることはない」ことを知った中学生を私は多く見てきて,「考える子どもとはどういう行動をとるか」を落ち着いて観察するようになった。

 教育の場にいて,野球というスポーツが本当の意味での生きる力を子どもにつけさせることができるよう,指導者が留意すべきことの重みを痛感している。

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社会化ありて,主体化なし~民主主義を学習する



 国家が担う「教育」によって,「国民」は「市民」になりうるのか?

 「特定の教科・道徳」や「公共(仮称)」は,

>既存の政治的・社会的な秩序を維持し,それに適応するための「知識・スキル・コンピテンス」の習得

 を超えて,本当の意味での「民主主義」の担い手となる「国民」や「市民」を育成できるのか?

 本書の内容は,「訳者あとがき」にきれいに要約されている。

>シティズンシップと民主主義の学習は,「国家=国民」のアイデンティティの涵養や,グローバル経済に照準をあわせた国際競争力の強化といった枠組みで捉えること(=「社会化」)を超えて,「公共的な対話」から疎遠なところで排除されがちな「無知な市民」が声を発信して参加し,社会や政治を更新し創出する実践過程(=「主体化」)として考えられることになる。

>必要なのは,既存の秩序を維持し存続するための「知識・スキル・コンピテンス」の獲得を志向することよりも,そうした秩序からは識別しえない「他なる」存在の仕方の「現れ」をその内に定位して,社会を変容させながら更新する「民主主義の実践」に関与することであり,教育が子どもや若者に「民主的に行動し存在する方法」を促進することによって,困難だが,開かれた「民主主義の実験」に参加する機会を提供することである。


 「主体性」という言葉は,たとえば学校教育法の義務教育・普通教育の目標の1つとして,以下のように用いられている。

学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

 主体的に社会の形成に参画するために必要なのは,公正な判断力や公共の精神ということになる。

 そもそも「公正とは何か」「正義や平等とは何か」「シティズンシップとは何か」などいった問いに向き合うことなくして,主体的な行動はとれない。

 社会化ありて,主体化なし,という結果にならないようにするために,教育が果たすべき役割は大きい。

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警察官がもらえる「お手当」~週刊ダイヤモンド



 1962年に警察庁に入庁し,退官後に衆議院議員選挙で当選後,現在13期目の政治家はだれでしょう?

 以前,何かの特番でTV出演していたときに聞いたような記憶があるが,興味のない人物の前歴はすぐに忘れてしまうものである。

 この人物から見た「警察と政治」の関係を示すエピソードを読んで,少し安心した。

 「最も結びついてはならない権力」の組み合わせの一つが,警察と政治である。

 政治的中立を保つために必要なものは何かを考える前に,

 なぜ政治的中立を保つことが必要なのかを理解していないといけない。

 
 警察についての私の興味は,「お給料」「お手当」である。

 私の小学校高学年の担任教師は,「教員は給料が安い」といつも文句を言っていた。

 実際には,必ずしもそうとは言えないことを現場で知った。

 同じ公務員で,「警察官は給料が安い」という愚痴も聞いたことがある。

 「給料が安い」職業では,守りにくいものがあると考えられる。

 高く売れてしまう恐れがある「情報」である。

 「情報」の力は,「広める」ことだけにあるわけではない。

 「情報」を大量に保有しながら,それを外部に漏れないようにしっかり管理してくれることで信用を得る機関もある。

 「情報」を得て,それを一般に広めることが,自分の組織の成績を向上させるために役立つ機関の代表はマスコミだろうか。

 警察にも,「情報」を得ることに精力を傾ける仕事がある。

 刑事ドラマなどでおなじみの「犯罪捜査」である。
 
 最近は,防犯カメラの映像が犯人特定の手がかりになっているケースが多いようだが,「足でかせぐ」捜査も重要だろう。

 捜査のためにかけられる経費はどのくらいなのだろうか。

 記事では,重要案件でも1万円程度,そうでなければ月に2000円くらいと書かれている。

 自腹を切っている捜査員が多いはずである。

 警察組織も人件費が大部分を占めるわけだが,教員とは違って,
 
 さまざまな「手当」がつくので,同世代の他の地方公務員と比べて1.5倍の年収になるらしい。

 組織の中でのしがらみなどは,教員と比べものにならないくらい厳しい世界かもしれない(小説を読んで想像しているだけのものだが)が,十分な収入が得られるという意味でも魅力のある仕事であってほしい。

 神奈川県警の主な特殊勤務手当が,「包括外部監査結果報告書」によって公開されている。

 私も知っていたのは,「爆発物処理」手当で4600円(支給日額,以下同じ)。

 「遺体処理」は630~5400円。

 「暴走族取り締まり」は300円。

 「私服員」は520円。

 「白バイ」は480円。

 「被害者相談」は490円。などなど。

 県警によって手当額は一律ではないかもしれないが,職務ごとに細かい手当がつくのは,恵まれた仕事だと感じた。

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教育政策の世界標準と民主主義の危機~よい教育とはなにか



 日本には伝統的な教育研究の手法があったが,それを根底から崩し,他の先進国の多くが実施している「教育」の真似をしようとしているのが現在の日本である。

 いつごろからか,「エビデンス」という言葉を使う政治家が増えてきた。

 「根拠」という日本語ではなく,わざわざ一般の人がわかりにくい「エビデンス」という単語を使う意味は言うまでもない。「世界標準の主張をしているのだ」というメッセージである。

 「エビデンス」という言葉の乱用が,ただの「流行り物」ではすまなくなっているのは,教育への不安と不満が背景にある。

 大勢を殺傷した人間が,養護学校の教師を目指し,教育実習を行い,わずかな期間ではあるが小学生に対して教育をしていたことがわかった。

 教育への不安や不満は,未来への不安を増幅させる。

 未来への不安が現在の教育への不満を増幅させているという一面もあり,

 教育現場の厳しさは,「よい人材が敬遠していく」という最凶の悪循環を生む背景ともなっていることが,教育政策を実施する側にとっての焦りにつながっている。

>教育研究は,教育研究者に任されるべきではなく,より実際的に適切になりうるように,中央集権的な課題設定・・・その内容や方法の点の両方で・・・に服するべきだ,と主張された。他方で教育実践は教育者の意見に任されるべきではなく,彼らの仕事は調査のエビデンスに基づくべきだということが提起された。教育研究と教育実践の双方の二つの変化への要求が,エビデンスに基づいた教育という考えのまさに核心にある(Davies 1999)

 教育政策を実施する上で・・・特に,民主主義国家の教育政策を実施する上で,「国家が何をしてはいけないか」を考える上で,後半の章の主張は注目に値する。

 公共圏の衰退,低下の原因は何か。

 民主主義とは何かへの問いが欠かせない今,教育政策を考える場では,上からの強制力が圧倒的に強くなっている。

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指導主事として教員を殺さぬよう~64(ロクヨン)

64(ロクヨン)
横山 秀夫
文藝春秋
2012-10


 後任の指導主事の皆さんは,元気でやっているだろうか・・・。

 ときどき不安が胸をよぎるときがある。

 「お前は学校の味方なのか?行政の味方なのか? 」

 元指導主事の校長から,こう問われたことがある。

 「私は子どもたちや都民の味方です」と本心を明かすことができなかった。

 横山秀夫さんの刑事もの小説『64」に,こんな一節がある。

>もとより警察は「男」を売りものにしている猛者集団だ。強面の者など刑事部の内にも外にも幾らだっている。刑訴法の運用しか頭にない働き盛りの警部をひょいと摘み上げ,警察本来の職務とは次元を異にする,組織防衛の門番に据えることにいかなる人事上のメリットがあるのか。

 「警察本来の職務とは次元を異にする,組織防衛の門番」とは,

 教育の世界では指導主事のことを言う。

 「組織防衛」のための行政職に魅力がないのは明らかである。

 教育委員会が「教師」の墓場にならないことを祈るばかりである。

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