教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

2018年04月

現代に生きている戦前のポピュリズム~週刊東洋経済



 戦前の政党政治は,国際協調・軍縮が求められた時代における軍事費の抑制など,一定の評価をすることができる。ただ,

反対党の不正を暴き,新聞に掲載されることが相手の大きなダメージになるので,暴露合戦が熱心に行われた・・・疑獄・買収・乱闘などの政党政治の弊害は,国民に知れ渡った(筒井清忠帝京大学教授の記事「現代日本まで地続き 戦前のポピュリズム」より)

天皇を中心にした警察(広くいえば内務官僚以外の官僚,軍部)のような中立的と見られた勢力によって社会が統合されることが望ましいといった機運が,国民の側から醸成されていった。一種の「天皇親政」待望的ムードが作られ,政党内閣から非政党内閣への変貌がむしろ望まれてしまった(同上)

 党利党略にどっぷりつかった政党=国民の敵

 中立的な天皇,軍部=国民の味方

という図式のもと,新体制=近衛内閣は国民の人気を集めて始まり,やがて戦争を迎えることになった。

 「既成政党=ダメ,支持政党なし」が多数である現代の日本には,次に何が待っているのか。

 「国民の敵」と国会議員を呼んだのはだれだったのか。

 「国民」とは何かを問う力を子どもたちには養っていきたい。

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一人ひとりが責任を担える世界に~Unthinking Social Science~脱=社会科学

脱=社会科学―19世紀パラダイムの限界
I・ウォーラーステイン
藤原書店
1993-09


 巻末のセミナー(「世界システム分析」をめぐって)の書き起こしがわかりやすい「入門」になっています。私は,ある分野での研究で語られていることが,他の世界にもあてはまってくるような,そういう「普遍的な価値」に重きをおく習慣をつけたいと思っています。

 ウォーラーステインが当時の学生によく語っている言葉として挙げられている内容も,それに該当します。

>だれかの,あるいは複数の人びとの思考を理解する場合,そのエッセンスを理解しようとすれば,その人がはたしてだれを相手に闘っているか,だれの考えを問題にしているか,をまず理解する必要がある

 ウォーラーステインの場合,発展主義,自由主義・マルクス主義,ニュートン的科学観念をその「相手」としているわけです。

>複雑な世界を分析する社会科学の方法が,逆に物理学において適用されるべきであると今日の物理学者が考えるのであれば,状況は一八〇度転換することになります

 自然と人間を徹底的に分離したり,正しい分析がすべて線形的,単線的な分析であると考えたりするのは「時代遅れ」になっているとすれば,今,子どもに教えられている「算数」「数学」「理科」という教科は根底から考え直さなければならなくなるかもしれません。

>資本主義の問題は,その失敗にあるのではなく,その成功にあると考えます。成功のためのあらゆる試みがその棺を用意していくことになる 
 
>五〇年先に現在のシステムがもはや存在しなくなると述べることは可能ですが,それに代わるシステムが単独,あるいは複数存在するかについて,さらにこのシステムが良いか悪いかについて予想することは不可能なわけです

 これらをポジティブに捉えることができる姿勢こそが,学問や教育の世界に求められていると思われます。

>出口を予想できないという理由の一つは,行動のあらゆるエレメントが解決に影響を与えるからです。哲学的に言えば,決定主義の状況から,自由意志によって左右される転換の時点に移行するのです。・・・(中略)・・・皆さん方の現実の行動が世界的なインパクトをもっている

 すでに2018年の時点で,こうした将来像が的を射ていたことがわかります。

 「理論」という言葉よりも,「分析」や「展望」という言葉をウォーラーステインが用いるのは,「閉ざされた事態,しかも断定的な意味」から自己を解放し,自由で創造的な仕事をするために必要だからです。

 教育の世界でも同じような「学校像」を描いていく必要があるでしょう。

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好かれなくてもいい。だが,嫌われてはいけない~最高のリーダーは何もしない



 私自身の教師人生は,どちらかというと「嫌われてナンボ」というスタンスでした。
  
 さすがに露骨に嫌悪感をぶつけられる経験はありませんでしたが。(指導主事のときは,前年の丸写しの教育課程届けを見て「指導」したときに,「ちっ」という心の声が聞こえてきたことがありました。)
 
 「よく耐えてくれたな」と思える場面が多かったような気がします。昔風のリーダーシップというべきか,ただの「いじめ」というべきかは,見る人の判断に委ねられます。

 教師と生徒の関係は,好かれるとか嫌われるといったものではなくて,いつか慕われるか忘れられるか,というものだと割り切って過ごしています。

 ただ,生徒に露骨に反発され,毛嫌いされている教師を見ていると,やはりどうにか工夫の方法がないものかと心配になってしまいます。信頼関係があるからこそできるようなことを,平気で生徒にぶつけていくので,「反抗」「騒動」ばかりが繰り返される。親子喧嘩と同じようなレベルのものが学校で発生するのは,他の生徒の迷惑にもなりますから,避けたいのです。

>2人の大手商社トップを通じて私が学んだのは,本当に大きな仕事を成し遂げるリーダーは敵をつくらないようにしているし,それ以前に,まわりの人に対する愛情や感謝を忘れないということです。

 田中角栄元総理大臣の

>広大な中間地帯をつくれ

 とは,

>好きでも嫌いでもない『中間層』をどれだけつくるかが大切だ

 という意味だそうです。基本的に,教師には子どもが勝手についてきてしまうものですが(それしか選択肢がないから),子どもがしっかりとした見通しをもって自分の学びや生活を意識できるようになると,はっきりと根拠のある「好き」「嫌い」という感情がわき起こってきます。

 全員に好かれようとする必要はありません。何も考えないでついてくるような生徒ではなく,「中間地帯」にいる子どもたちの方が,意外と教師に多くのことを学ばせてくれるかもしれません。

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教育と教師の哲学~問い続ける教師



 私は社会科の教師なのですが,社会科教育以外の本を多く読むことを心がけています。自分の視野を広く持ち続けるためです。教師になったばかりのころは,理想の教育とは何かを求めて,教育に関する本を多く読んでいました。今は,そういう本を読む必然性をあまり感じないのですが,やはりバランスを保つことを意識するために,上記のような本にも目を通すようにしています。
 
 主幹教諭とか指導主事といった立場を経験してしまうと,どうしても気になるのは「教師のダメな指導」による子どもへの悪影響です。紹介した本に紹介されている「ダメな指導」の具体例を実際の現場で目にすることも多く,「こういう本を先生方や管理職の方々に読んでもらいたい」というため息交じりの絶望感に襲われてしまいます。

 「若手をベテランが支える」ことの意義が語られていますが,学校によっては「若手がベテランの尻ぬぐいをさせられている」ところもあります。学校現場というところは,一人や二人の実体験で語ることができるような単純な場ではないので,汎用性のあるアドバイスというのがなかなかない。ただそういう「こうすれば上手くいく」という単純ではない世界に生きていることこそが,「追究型の学び」ができる強みになっていくことに気づいてもらいたいものです。

 「時間がない」「余裕がない」という愚痴が想像どおり出てきていますが,そういう「言い訳」が言い続けられる教育界には,未来はないでしょう。

 苫野さんが示している「アクティブ・ラーニングがうまくいきそうにない理由(大きな二つの問題)」は,行政側も認識しているとは思います。

>先生の主体性。先生がアクティブに主体的に学ぶ機会があまり保障されていない

 自分がどうやってアクティブに学べばいいかわからないのに,子どもにそういう学びをさせることはできない。

>アクティブ・ラーニングの「型」ばかり求めてしまっている

 見た目は話し合っているように見えても,思考回路がアクティブではなく,「型」に押し込められたものなので,「やらされている」だけ。効率良く内容を消化しようとする動機が見え見えで,大切な「発見」や「疑問」が「なかったことにされる」,にせアクティブ・ラーニングは「害」の方が大きいのです。

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教師に問われる「責任感」とは?~すべては導かれている



>人生における問題,すべて,自分に原因がある

 こういう覚悟が教師に限らず,経営者にも,親にも必要なのですが,
 
 人間は弱いので,「覚悟を持てる余裕がない」などといった言い訳をして,責任逃れ,他人事扱いします。

 「悪いのは私じゃない」「あいつのせいで・・・」という考え方しかできない人は,教師には向いていません。しかし,そういう教師がいる前提で,学校という場所で起こっていることを考えてみます。

 学校の教師たちは多くの「負担」を抱えていますが,「無責任教師」「他人事教師」のおかげで,生活指導の失敗の尻ぬぐいをさせられて,「余計な仕事を増やされている」と嘆く人たちがいます。他人事教師が他人事教師をつくる」悪循環が,巡り巡って子どもたちを苦しめているのです。
 特別の教科・道徳が,こういう教師たちの覚悟のなさを子どもが諫められる場になるとよいのですが,他人事教師が担任になると,どういう悲劇が子どもたちを待っているか,想像するだけで背筋が寒くなります。

 道徳で扱う「責任感」とは,どのような「覚悟」を教師に求めているのでしょうか。

 子どもの荒れや反抗を,教師はどのような心で「引き受ける」べきなのでしょうか。

 答えは,どこにでもあるとも言えますが,残念ながら,どこにもない学校があるかもしれません。

 私はかつて,学校の「荒れ」を家庭や地域の環境のせいにしている人たちと出会いました。しかし,家庭や地域の環境が変わらないのに,学校の「荒れ」がなくなってしまった状況を見せることで,自らの過ちに気づかせることができました。

 「すべて原因は自分たちにある」

 教師に求められる覚悟のことを「使命感」と呼んで,行政は,その有無をもとに「新しい」教員を採用してもらいたいものです。

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