教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

2018年10月

問いを磨く習慣をつける



 「空・雨・傘」という3語で行動規範を共有できる組織は強いですね。

 事実を捉え,的確にその意味を解釈し,行動を決めるといった単純で当たり前の流れです。

 ただ,今は「事実」を捉えること自体が難しく,見た目でどうなっているかを解釈するのは簡単ですが,その原因になるものは多様すぎて,想像するしかない場面も多い。だから,とりあえず行動する,という態度を基本原則にする企業まで登場しています。

 とにかく「問い」を磨くこと。

 「いい質問を生むための基本的な姿勢」が指南されていますが,参考にしたいものです。

>相手の反応に注意を向ける
>無邪気な好奇心をもって聞く(自分の考えや思いはいったん脇に置く)
>相手の発言や思いに対してジャッジメントをしない
>素朴な疑問を大切にして質問をする
>「それはなぜ?」と思考と洞察を深めていく


 実際には,逆の状態になりやすいものですが,それをしっかり自戒しながら行動できる人は成長しやすいと思います。

 行政にいると,上記のような態度で接してくれる人はほとんどいません。

 教師の立場でも同様です。

 でも,教師は上のような態度を大事にしたい。・・・こういうことを本当に口にすると,「自分の思い通りにしたいだけだろう」というジャッジが下されるので,「現場」はやりにくいところなのです。

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集活で「孤独」「孤立」を防ぐ

週刊東洋経済 2018年11/3号 [雑誌]
週刊東洋経済編集部
東洋経済新報社
2018-10-29


 ソーシャルキャピタルランキングは149か国中,101位・・・。
  
 地縁,血縁によるセーフティネットが消滅しつつある日本では,これから「孤独」「孤立」が大きな課題となっていく(すでになっている?)。

 日中関係は「競争」から「協調」へ。
  
 日本の人間関係は「会社・肩書・家庭」(3K)から,どこへ行けばよいのか。

 「シュウカツ」には,「就活」や「終活」がすでに一般用語になっているが,これから「集活」による「不寛容社会の解消」は可能か。

 「仕事」「趣味」「社会貢献」(3S)による人との関係性強化を築き直すことを説いているのが岡本純子さん(コミュニケーション・ストラテジスト)。男性思いのコメントは,読者層を踏まえてのことなのだろう。

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そもそも「市民」を育てる気のない国で



 AIの技術によって,人々は膨大な量の情報から,自動的に関心の高い情報だけに接して生きていける世の中になった。このことに対して「便利で良い」という脳天気な反応ではなく,「市民」であるための改革案を提示する人もいる。

>選ぶつもりもなかった情報に触れる機会を増やすために,「反対意見ボタン」や「セレンディピティ(偶然の出会い)ボタン」を設定する。

 子どもたちが集中できる「よい授業」とは,そんな情報に接することができる時間のことである。

 関連のある情報だけを集中的に流し込まれる授業と異なり,雑談にしか思えない情報が実は本質的な問題意識を生むしかけになっているなど,子どもたちが進んで参加できる環境をつくり,その先に「熟議」が起こせるような教材づくりが教師には求められている。

 もともと「劣化」するほどの民主主義が根付いていない日本では,「これからの社会づくり」のチャンスには恵まれていると言える。

 「都合のよい教師たち」による,「都合のよいカリキュラム」に基づく,自分のためだけにとって「都合のよい学習」から脱するためには,「不都合なこと」で満たされた環境設定が不可欠である。
 
 その「不都合さ」でも,日本の教育現場は都合がよい。

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「お客様」的発想の教育研究者の言葉



 教育研究者と学校の関係は,どうしても「お客」と「従業員」のようなものになってしまう。

 「従業員」は「お客様」に対して失礼な態度をとってはいけない。

 「お客」の方は,「従業員」がみんな「お客様である自分を大切に扱ってくれる人」であってほしい。ちなみに「子どもたち」は,「商品」または「売りものにするための道具」扱いである。

 「アクション」によって「主体」がバラバラの本書では,こんな「学校観」が語られている。

授業のクオリティは,教師同士が学び合い,共に挑戦し続けられるような「同僚性」と「組織文化」があるかに大きく規定されるのです。
  
 「すぐれた教師がたくさんいる学校」が,よい学校なのでは必ずしもありません。「その学校にいると,普通の先生が生き生きとしてすぐれた教師に見えてくるような学校」がよい学校なのです。


 完全に小学校を前提とした学校観である。中学校の同僚性は,授業ではなく,生活指導を含めた教育活動全般にわたって発揮されるもので,「授業のクオリティ」というよりも,生徒の「学習の充実度」はそれによって左右される面がある。

 教育研究者の需要は一定規模の中学校にはほとんどないから,「顧客扱い」してくれる場は主に小学校か形式上,講師を呼ぶ必要のある中学校だけである。

 「生き生きとしているように見えることが素晴しい」という発想の人間が教育を語ることは,非常に危険であり,特に道徳の授業がそんな教育観のもとで行われたら,目も当てられない。

 こういう「学校観」を持っている人は,きっと「子ども」も同じように見ているのだろう。

>>学習のクオリティは,子ども同士が学び合い,共に挑戦し続けられるような「仲間意識」と「学級文化」があるかに大きく規定されるのです。

 「すぐれた子どもがたくさんいる学校」が,よい学校なのでは必ずしもありません。「その学校にいると,普通の子どもが生き生きとしてすぐれた子どもに見えてくるような学校」がよい学校なのです。


 ということになるのだろう。

 こういう「見た目主義」「共同体主義」「形式主義」は,小学校教員と小学校教員への指導をベースに仕事をしている人に典型的に見える特徴である。中学校では,授業であえて「生き生きしているように見える」必要はない。「悩み苦しむ」のも人間の「仕事」だし,できなくて落ち込むこともある。関心・意欲・態度の評価がよくなるなら,「わざと生き生きしているように見えるように行動しよう」という発想を子どもに生んでしまう,大人のわがままをわざわざ表明しないでほしい。
 
 私は,ビザなし交流で訪れた,国後島での日本と現地の島民の中高生との英語の合同授業を参観していて,気が付いたことがあった。島民の中高生は,ホームということもあってだろうが,積極的に参加しているうように見えた。日本の中高生は,どちらかというと「聞き役」に回っていた。通訳さんにもかなり寄りかかっていた。始めは,その「消極性」に私も苛立ちを覚えたのだが,日本には,ペラペラとしゃべりたい人間にしゃべらせておき,聞き手に徹する,という立場がとれる伝統がある。「講演会」が大好きなのも,その伝統のおかげである。真の一斉授業の意味を知らない人がイメージする,ありがちな中等教育,高等教育の学校での授業は,正にその典型である。「本を読む」という行為も,まさにそれである。読み手から書き手にその場で届く言葉はない。しかし,国後島では,まとめの時間に,「どんな話があったか」を発表する場面で,日本の中高生は「らしさ」を発揮した。メモをしっかりとっていたり,内容を記憶していたりしていた子どもが多かったからである。

 日本の中高生は,協働的な場面でのアウトプットは少ないものの,個として何を学んだのかを検証させられる場面における(たとえばテストでの)アウトプットの能力が高い。

 授業では,時間の制約から,協働的なアウトプットの時間をとることは少ないが,もしそういう時間をとったとしても,成績が上がるのは,その時間にアウトプットをさかんにした子どもだけである。そもそもすべての子どもにアウトプットの時間を確保する通常の授業モデルは,40人学級では非常に困難である。

 私がICTを活用する授業では,全員がアウトプットする(アンケート機能をつかって自由記述や意見表明をさせる)時間,生徒はキーボードに文字をひたすら打ち込んでいるので,みんな黙ったままである。回収したデータをエクセルで送って,他の39人がアウトプットした内容を読む時間も,だれも言葉を発しない。「生き生きとして見える」,口から出る言葉を使った対話の場面はない。子どもたちは,自分が使わなかった情報や異なる意見など,他の生徒が書いた内容にふれている間,自己評価も同時に行っている。見た目は「協働的な場面」には見えない。他の生徒が書いたものを読んで自分なりに練り上げる作業の時間は,とても地味なものである。

 この様子だけを参観していて,「見た目」で「すぐれた子ども」か「普通の子ども」かを判断するのは難しい。子どもの画面をのぞき込む必要がある。すべての子どもとエクセルシートを見ている私は,「だれがすぐれた内容を回答し,だれの内容はどの程度なのか」を把握している(記述した生徒の名前は生徒の方は見えないようになっているが,だれが書いたかはだいたい子どもでも想像がつくものがある)。こういう授業を参観することに意味を感じないのは,「お客様」としてたまに来て偉そうに授業参観に臨む人たちだろう。

 「お客様」向けに,「すぐれた子ども」「すぐれた先生」のように見える授業を公開する必要がある学校は,本当に気の毒である。こういう学校ほど,公開されていない授業がひどいものであることを私は子どもから聞いて知っている。

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ホーキング氏が考えていたこと



 21歳の春にALS(筋萎縮性側索硬化症)の診断を受け,余命2,3年という宣告を受けたホーキング氏だが,亡くなったのは今年の3月,76歳だった。

私の目標は簡単だ。それは,宇宙のすべてを理解し,なぜこのようになるのか,なぜ生まれたのかを知ることだ。

 大きな目標の実現に向かって生きてきたホーキング氏の言葉の多くは,至って「普通」のものである。

 中学生にとったアンケートに書かれた言葉と似たようなものもたくさんある。

知識における最大の敵は無知ではなく,知っていると錯覚することだ。

 錯覚している人は多く,間違いに気づかない人も多い。

 自分の実像を理解しようとしない,「前向き」な人が多い一方で,自分を低く見て,いろんなものが足りていない状況に苦しむ「後ろ向き」の子どもも多い。

 ホーキング氏の言葉の中で,反応する人が多かったのは,次のものである。

AIがこのペースで自分自身を開発し続けていけば,生物的進化の遅い人間は,競争する前に追い越されるだろう。

 人工知能は社会を変える力を持つ。

 私たちの中には,科学への信頼感が高くない人もいる。

 学校が開発すべき能力とはどのようなものなのか。模索が続いている社会で,そろそろAIの存在感が出てきてもよいころかもしれない。

 プログラミング教育のレベルでは,きっと「遅れ」ばかりが目立つことになるだろう。

 社会の進化や変化に対応できる力を育成するには,「プログラム化されていないもの」に適応する機会を増やすべきではないか。

 人間関係や環境への不平不満から一歩も先に進めない人たちが自立できるきっかけは,どこにあるのだろう。

 一度,「だれも助けてくれない」という状況を経験することもムダではないような気がする。

 どこかの怪しげで「やった気になる」「わかった気になる」「できた気になる」教育とは,全く逆方向の方法である。

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