もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング
2010-11-19


 「記憶の書き換え」は,高齢の方々に昔の話を語っていただくときに厄介な問題として浮上する。
 
 もちろん正しい記憶に基づく証言も多いはずだが,伝聞に過ぎないことが実体験として語られたり,後にわかったことを当時の事実と解釈して語られたりもする。産みの親の「子どもの頃の話」が始まると,その仕組みをよく実感することができる。

 教育の世界で仕事をしていると,自分が児童生徒だったころの体験を後の操作で記憶を書き換えて,気の毒なほど見当違いな主張をしている人を見いだすことがある。

 自分の主張の正当性を証明するために,過去の記憶というか,正しいはずの認識が消去され,おかしな固定観念によって誤りの記憶が上書きされた連中に出会うのは,そう難しいことではない。

私たちは記憶を書き換えることができる。そして,自分で書き換えた記憶を思い出して,「ああ,私のこのような経験が私を今あるような人間にしたのだ」と納得する。

 勘違いしている人が多いが,人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく,「そのつどの都合で絶えず過去を書き換えることができる」能力によって担保されている。

 トラウマというのは記憶が「書き換えを拒否する」病態のことである。何らかの理由で,同一的なかたちと意味(というよりは無意味)を維持し続け,いかなる改変をも拒否するとき,私たちの精神は機能不全に陥る。トラウマを解除するためには「強い物語の力」が必要である。


 ある教育方法は,あるいは「トラウマ解除」のために創作されたのかもしれないが,私から見れば次々に「トラウマ」を生産し続けることになる,「暴力装置」に違いない。しかも,「トラウマ」を抱くことになるのは教師ではなく子どもである。教師の願いが先行する教育方法は,いかなる場合にも子どもにとっては苦役となる。「あとでわかる」と教師は自分や子どもを納得させるが,確かに,「あとでその問題性をしみじみとわかる」という意味では間違いではないのだ。

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