教育研究者と学校の関係は,どうしても「お客」と「従業員」のようなものになってしまう。

 「従業員」は「お客様」に対して失礼な態度をとってはいけない。

 「お客」の方は,「従業員」がみんな「お客様である自分を大切に扱ってくれる人」であってほしい。ちなみに「子どもたち」は,「商品」または「売りものにするための道具」扱いである。

 「アクション」によって「主体」がバラバラの本書では,こんな「学校観」が語られている。

授業のクオリティは,教師同士が学び合い,共に挑戦し続けられるような「同僚性」と「組織文化」があるかに大きく規定されるのです。
  
 「すぐれた教師がたくさんいる学校」が,よい学校なのでは必ずしもありません。「その学校にいると,普通の先生が生き生きとしてすぐれた教師に見えてくるような学校」がよい学校なのです。


 完全に小学校を前提とした学校観である。中学校の同僚性は,授業ではなく,生活指導を含めた教育活動全般にわたって発揮されるもので,「授業のクオリティ」というよりも,生徒の「学習の充実度」はそれによって左右される面がある。

 教育研究者の需要は一定規模の中学校にはほとんどないから,「顧客扱い」してくれる場は主に小学校か形式上,講師を呼ぶ必要のある中学校だけである。

 「生き生きとしているように見えることが素晴しい」という発想の人間が教育を語ることは,非常に危険であり,特に道徳の授業がそんな教育観のもとで行われたら,目も当てられない。

 こういう「学校観」を持っている人は,きっと「子ども」も同じように見ているのだろう。

>>学習のクオリティは,子ども同士が学び合い,共に挑戦し続けられるような「仲間意識」と「学級文化」があるかに大きく規定されるのです。

 「すぐれた子どもがたくさんいる学校」が,よい学校なのでは必ずしもありません。「その学校にいると,普通の子どもが生き生きとしてすぐれた子どもに見えてくるような学校」がよい学校なのです。


 ということになるのだろう。

 こういう「見た目主義」「共同体主義」「形式主義」は,小学校教員と小学校教員への指導をベースに仕事をしている人に典型的に見える特徴である。中学校では,授業であえて「生き生きしているように見える」必要はない。「悩み苦しむ」のも人間の「仕事」だし,できなくて落ち込むこともある。関心・意欲・態度の評価がよくなるなら,「わざと生き生きしているように見えるように行動しよう」という発想を子どもに生んでしまう,大人のわがままをわざわざ表明しないでほしい。
 
 私は,ビザなし交流で訪れた,国後島での日本と現地の島民の中高生との英語の合同授業を参観していて,気が付いたことがあった。島民の中高生は,ホームということもあってだろうが,積極的に参加しているうように見えた。日本の中高生は,どちらかというと「聞き役」に回っていた。通訳さんにもかなり寄りかかっていた。始めは,その「消極性」に私も苛立ちを覚えたのだが,日本には,ペラペラとしゃべりたい人間にしゃべらせておき,聞き手に徹する,という立場がとれる伝統がある。「講演会」が大好きなのも,その伝統のおかげである。真の一斉授業の意味を知らない人がイメージする,ありがちな中等教育,高等教育の学校での授業は,正にその典型である。「本を読む」という行為も,まさにそれである。読み手から書き手にその場で届く言葉はない。しかし,国後島では,まとめの時間に,「どんな話があったか」を発表する場面で,日本の中高生は「らしさ」を発揮した。メモをしっかりとっていたり,内容を記憶していたりしていた子どもが多かったからである。

 日本の中高生は,協働的な場面でのアウトプットは少ないものの,個として何を学んだのかを検証させられる場面における(たとえばテストでの)アウトプットの能力が高い。

 授業では,時間の制約から,協働的なアウトプットの時間をとることは少ないが,もしそういう時間をとったとしても,成績が上がるのは,その時間にアウトプットをさかんにした子どもだけである。そもそもすべての子どもにアウトプットの時間を確保する通常の授業モデルは,40人学級では非常に困難である。

 私がICTを活用する授業では,全員がアウトプットする(アンケート機能をつかって自由記述や意見表明をさせる)時間,生徒はキーボードに文字をひたすら打ち込んでいるので,みんな黙ったままである。回収したデータをエクセルで送って,他の39人がアウトプットした内容を読む時間も,だれも言葉を発しない。「生き生きとして見える」,口から出る言葉を使った対話の場面はない。子どもたちは,自分が使わなかった情報や異なる意見など,他の生徒が書いた内容にふれている間,自己評価も同時に行っている。見た目は「協働的な場面」には見えない。他の生徒が書いたものを読んで自分なりに練り上げる作業の時間は,とても地味なものである。

 この様子だけを参観していて,「見た目」で「すぐれた子ども」か「普通の子ども」かを判断するのは難しい。子どもの画面をのぞき込む必要がある。すべての子どもとエクセルシートを見ている私は,「だれがすぐれた内容を回答し,だれの内容はどの程度なのか」を把握している(記述した生徒の名前は生徒の方は見えないようになっているが,だれが書いたかはだいたい子どもでも想像がつくものがある)。こういう授業を参観することに意味を感じないのは,「お客様」としてたまに来て偉そうに授業参観に臨む人たちだろう。

 「お客様」向けに,「すぐれた子ども」「すぐれた先生」のように見える授業を公開する必要がある学校は,本当に気の毒である。こういう学校ほど,公開されていない授業がひどいものであることを私は子どもから聞いて知っている。

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