教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

小学校教育

エビデンス重視の教育政策が生むモノ



 エビデンス,エビデンス,と何とかの一つ覚えの大合唱が始まった。

 学校における儀式的行事が大切であることを示すデータ=エビデンスがなければ,いずれフランスのような学校になる。

入学式や卒業式などの儀式的な行事,制服や校歌,また生徒会活動やクラブ活動がないことである。フランスでは学校は何よりも学科を教えるところなのだ。

 「フランスの教師は楽勝だ」という学生が増える。塾のおかげで大学に入ってきたそういう学生に特別活動の意義を教えるのは難しい,だから,もうそんなものはなくしてもらおう,という大学の教員が増える。お友達の行政マンが,本当に「なし」にしてしまう。悲しい未来予想である。

 子どもにも,進学や進級に値するエビデンスが求められると,何年経っても進級できない子どもが登場してくる。「落第・飛び級がない」日本の教育システムが優れているというエビデンスはどこにあるのだろう。

 バカロレアはすでに日本でも真似しだしているが,その成果を示すデータを見てみたい。

 ところで,英語の学力調査で,「話す試験」が導入されることになっている。
 
 パソコンに差したUSBメモリに録音したデータを入れるらしいが,40人が同時に音声を吹き込むと,どういうことになるか,想像できるだろうか。外の音が完全に聞こえないヘッドホンを用意する必要がある。そして,そのデータを分析して得点をつけるために,何人の採点者をどれくらいの時間,いくらくらいで雇うのだろう。業者に発注してもよいのだが,業者がアルバイトを使って採点したデータの信憑性はだれがどのように保証するのだろう?
 
 子どもが話し合ったり聞き取ったりするデータをすべて集めて保存し,成績を加味したAIが「最も優れた動き方」を示せることになるという。いずれ子どもたちは,AIの言いなりに動くロボットになっていくらしい。

 単純に数値化できないものが多いことが人間らしい営みなのだが・・・。データ化されたものがやがて一人歩きする時代になる。そんな時代の子どもは本当に気の毒である。


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公教育の成果をビジネスの道具にしている教員への疑問

ビジネスモデル2.0図鑑
近藤 哲朗
KADOKAWA
2018-09-29


 週刊東洋経済の記事で知ったのだが,この本は発売2週間以上前に,全文がインターネットで公開されたそうだ。発売前にすべての内容を公開してしまったのに,発売2日後には重版出来が決まったという。
 2600円というのは,少し高めの価格設定だと思うが,人は「全文公開しても,その内容が優れており,1冊の本として手元に置いて起きたい,という気持ちになるような立派な本なのだ」と購買意欲を高めるものだ,と考えられるのだろう。

 「非常識」の中にこそ強いビジネスモデルがある,というメッセージを,「発売前全文公開」という形で表現した背景には,「経済合理性だけでは足りない」という意識や,「稼ぐということへの嫌悪感」があったらしい。
 
 小学校の教師たちの中には,教育公務員なのに教育をビジネスの道具として利用する人間がいる。
  
 まさに今日,ある講演会の中で,講師が土日の「セミナー」や本の「出版」の例を持ち出していた。

 有料のセミナーを開いている教師や,教育実践を本にして出している教師たち(自分の大学)を持ち上げていたのだ。

 土日の勉強会を開くのに,参加者から金を徴収して自分の懐に入れるという発想は,中学校や高校の教員にはないのだ。また,よほどの人でなければ,中学校や高校の教員では単著を出せない。出せる人は,公立学校の教員など辞めてしまう。小学校の教員の場合は,「個人名で本が売れる」環境があるから,「儲けの道具」「大学教員になるための道具」になっている。

 私は何度も書いているが,公教育の立場にいる人間は,自分の仕事を金儲けの道具に使うべきではないと考えている。出世の道具に使うなとまでは言えないが,教育の成果を世間に広めたいのなら,ネットで公開すればいい。情報がいくらでも発信できるこの時代に,「本」でないと伝わらない,ということはない。

 小学校教員が,土日にヒマなのはよくわかる。この間に金儲けすれば,家族に還元される,というのもよくわかる。しかし,こういうサイドビジネスがなぜ放置されているのか,私には理解できない。

 私は,表紙に使われた(当時の)小学生たちが不憫でならない。将来(中学校に入って)どうなるかわからない子どもたちが,自分が死んでも顔が晒され続ける事実に抵抗を覚えても,手遅れなのである。文章までまともに読む子どもは少ないだろうが,「編集」された内容を読んだり,「種明かし」された「騙し技」を読んだりして,不快な気持ちにはならないのだろうか。

 子どもを金儲けの道具に使うのはやめてほしい。 

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「お客様」的発想の教育研究者の言葉



 教育研究者と学校の関係は,どうしても「お客」と「従業員」のようなものになってしまう。

 「従業員」は「お客様」に対して失礼な態度をとってはいけない。

 「お客」の方は,「従業員」がみんな「お客様である自分を大切に扱ってくれる人」であってほしい。ちなみに「子どもたち」は,「商品」または「売りものにするための道具」扱いである。

 「アクション」によって「主体」がバラバラの本書では,こんな「学校観」が語られている。

授業のクオリティは,教師同士が学び合い,共に挑戦し続けられるような「同僚性」と「組織文化」があるかに大きく規定されるのです。
  
 「すぐれた教師がたくさんいる学校」が,よい学校なのでは必ずしもありません。「その学校にいると,普通の先生が生き生きとしてすぐれた教師に見えてくるような学校」がよい学校なのです。


 完全に小学校を前提とした学校観である。中学校の同僚性は,授業ではなく,生活指導を含めた教育活動全般にわたって発揮されるもので,「授業のクオリティ」というよりも,生徒の「学習の充実度」はそれによって左右される面がある。

 教育研究者の需要は一定規模の中学校にはほとんどないから,「顧客扱い」してくれる場は主に小学校か形式上,講師を呼ぶ必要のある中学校だけである。

 「生き生きとしているように見えることが素晴しい」という発想の人間が教育を語ることは,非常に危険であり,特に道徳の授業がそんな教育観のもとで行われたら,目も当てられない。

 こういう「学校観」を持っている人は,きっと「子ども」も同じように見ているのだろう。

>>学習のクオリティは,子ども同士が学び合い,共に挑戦し続けられるような「仲間意識」と「学級文化」があるかに大きく規定されるのです。

 「すぐれた子どもがたくさんいる学校」が,よい学校なのでは必ずしもありません。「その学校にいると,普通の子どもが生き生きとしてすぐれた子どもに見えてくるような学校」がよい学校なのです。


 ということになるのだろう。

 こういう「見た目主義」「共同体主義」「形式主義」は,小学校教員と小学校教員への指導をベースに仕事をしている人に典型的に見える特徴である。中学校では,授業であえて「生き生きしているように見える」必要はない。「悩み苦しむ」のも人間の「仕事」だし,できなくて落ち込むこともある。関心・意欲・態度の評価がよくなるなら,「わざと生き生きしているように見えるように行動しよう」という発想を子どもに生んでしまう,大人のわがままをわざわざ表明しないでほしい。
 
 私は,ビザなし交流で訪れた,国後島での日本と現地の島民の中高生との英語の合同授業を参観していて,気が付いたことがあった。島民の中高生は,ホームということもあってだろうが,積極的に参加しているうように見えた。日本の中高生は,どちらかというと「聞き役」に回っていた。通訳さんにもかなり寄りかかっていた。始めは,その「消極性」に私も苛立ちを覚えたのだが,日本には,ペラペラとしゃべりたい人間にしゃべらせておき,聞き手に徹する,という立場がとれる伝統がある。「講演会」が大好きなのも,その伝統のおかげである。真の一斉授業の意味を知らない人がイメージする,ありがちな中等教育,高等教育の学校での授業は,正にその典型である。「本を読む」という行為も,まさにそれである。読み手から書き手にその場で届く言葉はない。しかし,国後島では,まとめの時間に,「どんな話があったか」を発表する場面で,日本の中高生は「らしさ」を発揮した。メモをしっかりとっていたり,内容を記憶していたりしていた子どもが多かったからである。

 日本の中高生は,協働的な場面でのアウトプットは少ないものの,個として何を学んだのかを検証させられる場面における(たとえばテストでの)アウトプットの能力が高い。

 授業では,時間の制約から,協働的なアウトプットの時間をとることは少ないが,もしそういう時間をとったとしても,成績が上がるのは,その時間にアウトプットをさかんにした子どもだけである。そもそもすべての子どもにアウトプットの時間を確保する通常の授業モデルは,40人学級では非常に困難である。

 私がICTを活用する授業では,全員がアウトプットする(アンケート機能をつかって自由記述や意見表明をさせる)時間,生徒はキーボードに文字をひたすら打ち込んでいるので,みんな黙ったままである。回収したデータをエクセルで送って,他の39人がアウトプットした内容を読む時間も,だれも言葉を発しない。「生き生きとして見える」,口から出る言葉を使った対話の場面はない。子どもたちは,自分が使わなかった情報や異なる意見など,他の生徒が書いた内容にふれている間,自己評価も同時に行っている。見た目は「協働的な場面」には見えない。他の生徒が書いたものを読んで自分なりに練り上げる作業の時間は,とても地味なものである。

 この様子だけを参観していて,「見た目」で「すぐれた子ども」か「普通の子ども」かを判断するのは難しい。子どもの画面をのぞき込む必要がある。すべての子どもとエクセルシートを見ている私は,「だれがすぐれた内容を回答し,だれの内容はどの程度なのか」を把握している(記述した生徒の名前は生徒の方は見えないようになっているが,だれが書いたかはだいたい子どもでも想像がつくものがある)。こういう授業を参観することに意味を感じないのは,「お客様」としてたまに来て偉そうに授業参観に臨む人たちだろう。

 「お客様」向けに,「すぐれた子ども」「すぐれた先生」のように見える授業を公開する必要がある学校は,本当に気の毒である。こういう学校ほど,公開されていない授業がひどいものであることを私は子どもから聞いて知っている。

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前川氏も寺脇氏もダメ出しする道徳教材『星野君の二塁打』

前川喜平「官」を語る
前川 喜平
宝島社
2018-07-12


 
 本書でもふれられている,道徳教材『星野君の二塁打』へのツッコミがネット上でも見られた。

 日大アメフト部と同列にしては,物語の作者にもさすがに失礼だろうが,「決勝打を打った子どもが,監督の指示に従わなかったという理由で罰を受ける」という題材である。

 小学校の道徳の教科書には,

星野君のとった行動(バントのサインを無視してヒッティングをすること)をとおして,きまりを守り,義務を果たす(監督のバントのサインに従う)ことの大切さを考える。

だれもがきまりを守らず,義務を果たさなかったら,どんな世の中になるでしょう。

 という「学習の道すじ」が示されている。

 この題材からは,「たとえバントを失敗し,チャンスの目がつぶれても,監督の命令に従ったのだから,だれも悪くない」ことも学べるのだろうか。修身の復活と呼ばれる所以がよくわかる。道徳の教科化という人災に対して,どのような減災対策がとれるだろうか。

犠牲の精神が分からない人間は社会に出ても,良い仕事はできない

 という教訓は,「あるものをなかったことにする」=良い仕事,「あるものをなかったことにはできない」=悪い仕事という風に解釈されるのだろう。

 「監督の命令(ランナーを進めること)を見逃したことにして,より高い目的(相手に試合で勝つこと)を達成すること」は評価されないという価値観を教えられることで,せっかくグローバル人材になる資質能力をもった子どもも,スポイルされているのだろう。

 監督やリーダーの命令には絶対服従,という精神は,やはり戦場でコマになる人間の資質能力としては重視すべきものである。

 今の小学校教育はここまで「命令への服従の精神」を植え付ける指導をしないと,成立させられない状況になっているのだろうか。

 違法再就職斡旋や子どもを裏口入学させる「偉い人たち」がいる組織が問題になるから,「世の中をいい方に変えよう」とする道徳心のある人が生まれます,という「答え」は小学生からは出てこないだろうが・・・。

現在の政権になってから,全体主義的な方向に向かう流れは私も感じています。たとえば今年(2018年)から,小学校において道徳の検定教科書が導入されていますが,憲法の範囲を逸脱していると思われる内容が多く含まれていて,果たして「これが正しい価値観だ」と子どもたちに教え込んでいいものなのか,疑問に思いますね。

 こうした道徳教育から子どもたちを守るための防災対策が求められる。

危ない「道徳教科書」
寺脇 研
宝島社
2018-09-01



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教育者が語るべきではない言葉~一人も見捨てない教育の実現



 人からの褒め言葉を自分で語る人を,私は基本的に信用しません。
 
 人を褒めることを「手段」としている人とは,結局人から褒められたい人なのだというのが経験的にわかるからです。

 基本的に,本書には教育に携わる人として,当たり前に行われていて不思議のないことしか書かれていないのですが,著者が語った以下の引用中で太字にした部分だけは,行政にいた経験のある私からすると,社会や子どもたちを欺いていたのかと思わざるを得ない内容になっています。なお,(  )内の言葉は私が記した補足です。

>いろいろな出来事をとおして(教育委員会との間の)関係が崩れ始め,それに合わせて,「厳しい学校」に異動させられていた気がします。

>私にとっては,その前の(たいへんな学校にいた)12年間がありましたから,・・・・(中略) ・・・私の気持ちの中では12年間の刑期を終えて,普通の学校に戻ってくることができたと思っていたのです。


 「普通の学校」のレベルが,2年生のときに担任が6人変わり,4年生のときに3人変わったり,6年の担任の持ち手がいないので,講師の先生に任せられたりする状態だったのは子どもにとって本当に気の毒なことだと思いますが・・・。

 私の場合はいわゆる「荒れた学校」に異動する前(初任の学校に在籍していたころ)から,指導主事の先生に「次は荒れた学校ね」とずっと言われていました。

 実際に赴任して,何年か過ごすうちに,指導主事の先生の意図が深く理解できるようになりました。

 教育公務員が,「荒れた学校」への異動を「刑務所送り」のように表現する感覚は,私には絶対に理解できません。

 男ばかりで固まっての情報発信などは,地方ならではの風習なのでしょうか。

 後味の悪さばかりが残る1冊になってしまいました。

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