AKB48がまだそれほど有名になる前に,たまたまある場所でAKB48のステージの舞台横を通り過ぎたことがありました。
ちょうど舞台に駆け上がる瞬間で,そのときの私の印象は
「こんなに小さい子たちを商売道具に使うのはいかがなものか」
といったもので,私が抱いた心配は,海外のメディアも注目していたようで,
次のような一節がありました。
>斎藤 ・・・・AKBの女の子たちが並んでいる図を見て,たぶん欧米人は異様なものを感じるでしょう。
>佐藤 普通に感じるのはたぶん児童ポルノですよね。
>斎藤 秋元康はCNNのインタビューを受けたとき,まさにその批判を受けて,しっかり答え切れていない。
・・・・(中略)・・・ジェンダーに関わる問題だけに,欧米に輸出するならそこは理論武装すべきでしょう。
AKBにもAKBファンにも恨みはないので,
これくらいにさせてもらって,私の関心事は教育問題ということで,
この本が大きなテーマとしているファシズムと日本の文化との関係を考えてみたいと思います。
なお,対談の最後には,
>佐藤 逆に,日本はファシズムすら成立しないような恐ろしい状態に・・・・
というコメントがあることと,また巻末の次の言葉(佐藤優)だけ,紹介しておきます。
>私は,霞ヶ関(官界)で「自分はきわめて有能だが,それが組織によって正当に評価されていない」という不満を持つ,能力が低いがヤル気のある官僚がヤンキー政治に利用価値を見だすと,日本でもファシズムが成立すると考えている。
私は中学校の社会科の教師をしているので,小学校での教育にも強い関心をもっていますが,
小学校の歴史教育については,基本的に戦前と同じ路線をいっている印象があることを指摘しておきます。
歴史上の代表的な人物を中心に学ぶというスタイル自体が,歴史だけでなく修身とのつながりもにおってくるもので,もちろんすべて戦前と同じ内容を学んでいるわけではないのですが,
部分的には全く同じような論理で繰り返されているものもあるわけです。
織田信長の戦略などはそのいい例で,いまだに奇襲作戦とか鉄砲の三段攻撃で勝っていったなどと教えている人がいる。
「頭をよく使う」程度ならまだいいのですが,「精神主義」の領域に子どもを入れてしまうと,あまりに危険すぎることに危機意識をもっていない教師が多いようなのです。
そういう教育内容については,改善の余地があるような気がしますが,
私が最も危惧しているのは,
「全体主義なにおい」をぷんぷんさせる学級王国というシステムです。
学級ファシズムと名付けた人は今のところいないようですが・・・。
小学校の教師が大好きな精神主義的な「標語」の数々をご存じですか?
学級ファシズムという概念は,学級担任が独裁者であるから,
という単純な話ではありません。
ファシズムの最大の問題は,「内」と「外」をはっきり分ける点にあるのですが,
まさに学級王国がつくりだしているのは,学級内の「非国民」なのです。
私は「非国民」扱いされた子どもをたくさん知っています。
中学校に上がってくると,戦前の「全体主義」から戦後の「民主主義」の国に
生まれ変わった日本人のような感覚を味わうようで,
とても生き生きするようになります。
可哀想なのが,勘違いさせられ続けてきた子どもたちで,
「自分がなにものであるか」を「学級王国」と切り離したかたちで考えさせてもらえなかった結果,
中学校に上がってしばらくして,「勉強ができない自分」という客観的なデータに基づく事実に初めて直面させられて,「だれも救ってくれない状況」に立たせられてしまう。
親はすぐに「塾」に救済を申し込むのですが,子どもがそこに出かけて心の負傷兵たちに大勢出会って,またもショックを受ける。
心の自立を果たせないまま中学校に上がってきた子どもの中には,
部活動に命を捧げる者が出てきますが,・・・・もうこの先はご想像にお任せしましょう。
「体罰反対」に反対の声を上げたのは,部活動に参加していた生徒とその保護者だった,というのはある高校の話です。
私は,小学校での「学級崩壊」は,かたちによっては「あり」だと考えています。
小学生には「革命」は起こせませんが,「民主化運動」くらいはできる。
ただ,反抗する意欲を育てられなかった子どもたちは気の毒です。
担任教師がご機嫌取りを完璧にやってしまって,「ふやけたファシズム」状態になっている集団ほど悲惨なものはありません。
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