教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

教育問題

前座としての修行~落語と現代社会



 昔は教師の中に,落語に通って「話術」を磨いた,と語っている人がいたものだが,最近はどうだろうか。「話術を磨く」という範疇であるうちは,おそらく「落語」という世界には入っていない人だったと思われる。
 
 「まくら」で観客の反応をたしかめながら,ネタを決める,という落語家の度胸というか引き出しの多さを体得するまで,教師なら何年くらいかかるだろうか。

 教師の中には,高校や大学では特に,とにかく最初から最後まで,自分が言いたいことを言って終わり,というスタイルの人がいる。その真逆で,ほとんど言いたいことがないために,相手の言葉をオウム返しするしかできない壊れたボイスレコーダーみたいな人もいる。「対話」ができない子どもが増えているのは,そもそも「対話」のない関係を教師と長時間共有し続けたツケなのだろう。
  
 前座の役割とは何か。この弱肉強食の世界で,「自分を殺す」ことの意義に気がつくことのできる環境で生きられる人は少ない。

 本当に理不尽な改革を押しつけてくる,生産能力ゼロの管理者たちをどう消滅させるかが,働き方改革の基本である。

 日本の行政の根本問題は,本物の「前座」らしい仕事をせずに管理職になってしまうことにあることがわかった。

 古典芸能「落語」の奥は深い。何より,弱い立場の人,困り者を「許す」ゆとりを与えてくれる芸は,社会の無駄を大幅に減らしてくれる効果があると思われる。

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教師が自由になるとどうなるか~バカとつき合うな

バカとつき合うな
堀江貴文
徳間書店
2018-10-26


 行動しない人間は「無」に等しい。

 ということは,学校というところは,「無」を大量生産する場所という意味になる。
  
 教員がもしルールに縛られない,ということになったら,どんな「行動」をし出すだろう。
  
 体罰をしまくるのか,暴言を吐きまくるのか,それとも『学び合い』に逃げ込むのか。

 今も相変わらず,好き勝手できる学校があるようだが,「自由」の本当の怖さを知っているのはどういう人たちだろう。
 
 自由になると,とたんに何もできなくなる人がいる。定年後のおじさんたちを揶揄しているわけではない。真面目に「無」になって採用試験に受かった若者が,「自由」を与えられて「無」であることに気づいたときに,教育関係だと逃げ場は大学しかなくなってしまう。そこで再び「無」に還る。

 一方で,「行動」「行動」と言っている人が,実際には何もできないで苦しんでいたりもする。

 あるいは,「行動」「行動」と口に出していることだけで満足していたりもする。

 何も語らずに黙々と仕事に打ち込む姿に感じるものがなくなった人が求めているものがよくわかる本である。 

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笑いのネタに関する注意事項



 TVのCMや視聴率が高いバラエティー番組で登場する「痛がりネタ」を想像してみてほしい。

 子どもを一番簡単に笑わせる方法の一つである。

 動画制作で有名な人も,「簡単に視聴者を惹きつけることがネタ」の一つとして「激辛なものを食べて苦しむこと」を例示していた。

 私自身も,大学時代に野球のリーグ戦で頭部への死球を受けた後の,バッターボックスが血の海になった話や病院での縫合手術をネタにして中学生を喜ばせることがある。

 頭部への死球は,命にかかわる危険な事故であり,当たり前だがよければ避けられるものなのだが,「カーブに山を張っていた時のストレート」など,反応がほんの少し遅くなっただけで,気がついたら目の前で星が輝いて何も見えなくなっている自分に気づくものである。

 ブルペンで相当球が暴れているのを直前まで見ていたから,1番打者として,「フォアボールが狙えるな」と思った。しかし,フォアボール狙いだと,気持ちが消極的になり,「弱いチームの戦い方」を見せつけて相手になめられてしまうと思い,気持ちは超攻撃態勢をとった。曲がってど真ん中に入るはずだったボールは,そのまま頭に向けて飛んできた。私は相手のピッチャーを信頼していたのだとも思う。頭に死球が来るタイプの人ではなかった。1年先輩の選手だったが,次のリーグ戦で対戦する前に謝りに来てくれた。「よけなくて余計なご心配をおかけしました」と心ではこちらが謝っていた。

 先月,頭部への死球で高校生が亡くなったそうだ。投球をした高校生は,まだ野球を続けられているだろうか。

 高校野球はまだ戦時中の軍隊のような世界だから(監督やコーチも同じユニフォームを着て戦うことなども含めて),亡くなった子どものためにも,ということで周りが一致団結してさらに士気を高めることができるスポーツかもしれない。

 野球シーズンが終わると,「珍プレー好プレー」を特集した番組が放送される。

 今回,頭部への死球をネタにしたナレーションが批判を受けているらしい。

 そういう批判は,私も受けなければならない。ただ,私自身が話すのではなく,他人が私を茶化すように話題にしていたとしたら,どう思うだろうか。

 野球のボールは,捕手など特に該当するが,急所に当たることがある。これが「事故」になり,子どもができなくなってしまった人がいるかもしれない。

 こういう「想像」ができる人を育てなければならない。だから,笑いにするな,とは言わないが,野球をやっている人間なら,自分がいつ「被害者」「犠牲者」になるかもしれないことを自覚する必要があるし,そういう人がいることを,司会者や識者っぽい人が一言断るべきなのだろう。

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エビデンス重視の教育政策が生むモノ



 エビデンス,エビデンス,と何とかの一つ覚えの大合唱が始まった。

 学校における儀式的行事が大切であることを示すデータ=エビデンスがなければ,いずれフランスのような学校になる。

入学式や卒業式などの儀式的な行事,制服や校歌,また生徒会活動やクラブ活動がないことである。フランスでは学校は何よりも学科を教えるところなのだ。

 「フランスの教師は楽勝だ」という学生が増える。塾のおかげで大学に入ってきたそういう学生に特別活動の意義を教えるのは難しい,だから,もうそんなものはなくしてもらおう,という大学の教員が増える。お友達の行政マンが,本当に「なし」にしてしまう。悲しい未来予想である。

 子どもにも,進学や進級に値するエビデンスが求められると,何年経っても進級できない子どもが登場してくる。「落第・飛び級がない」日本の教育システムが優れているというエビデンスはどこにあるのだろう。

 バカロレアはすでに日本でも真似しだしているが,その成果を示すデータを見てみたい。

 ところで,英語の学力調査で,「話す試験」が導入されることになっている。
 
 パソコンに差したUSBメモリに録音したデータを入れるらしいが,40人が同時に音声を吹き込むと,どういうことになるか,想像できるだろうか。外の音が完全に聞こえないヘッドホンを用意する必要がある。そして,そのデータを分析して得点をつけるために,何人の採点者をどれくらいの時間,いくらくらいで雇うのだろう。業者に発注してもよいのだが,業者がアルバイトを使って採点したデータの信憑性はだれがどのように保証するのだろう?
 
 子どもが話し合ったり聞き取ったりするデータをすべて集めて保存し,成績を加味したAIが「最も優れた動き方」を示せることになるという。いずれ子どもたちは,AIの言いなりに動くロボットになっていくらしい。

 単純に数値化できないものが多いことが人間らしい営みなのだが・・・。データ化されたものがやがて一人歩きする時代になる。そんな時代の子どもは本当に気の毒である。


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公教育の成果をビジネスの道具にしている教員への疑問

ビジネスモデル2.0図鑑
近藤 哲朗
KADOKAWA
2018-09-29


 週刊東洋経済の記事で知ったのだが,この本は発売2週間以上前に,全文がインターネットで公開されたそうだ。発売前にすべての内容を公開してしまったのに,発売2日後には重版出来が決まったという。
 2600円というのは,少し高めの価格設定だと思うが,人は「全文公開しても,その内容が優れており,1冊の本として手元に置いて起きたい,という気持ちになるような立派な本なのだ」と購買意欲を高めるものだ,と考えられるのだろう。

 「非常識」の中にこそ強いビジネスモデルがある,というメッセージを,「発売前全文公開」という形で表現した背景には,「経済合理性だけでは足りない」という意識や,「稼ぐということへの嫌悪感」があったらしい。
 
 小学校の教師たちの中には,教育公務員なのに教育をビジネスの道具として利用する人間がいる。
  
 まさに今日,ある講演会の中で,講師が土日の「セミナー」や本の「出版」の例を持ち出していた。

 有料のセミナーを開いている教師や,教育実践を本にして出している教師たち(自分の大学)を持ち上げていたのだ。

 土日の勉強会を開くのに,参加者から金を徴収して自分の懐に入れるという発想は,中学校や高校の教員にはないのだ。また,よほどの人でなければ,中学校や高校の教員では単著を出せない。出せる人は,公立学校の教員など辞めてしまう。小学校の教員の場合は,「個人名で本が売れる」環境があるから,「儲けの道具」「大学教員になるための道具」になっている。

 私は何度も書いているが,公教育の立場にいる人間は,自分の仕事を金儲けの道具に使うべきではないと考えている。出世の道具に使うなとまでは言えないが,教育の成果を世間に広めたいのなら,ネットで公開すればいい。情報がいくらでも発信できるこの時代に,「本」でないと伝わらない,ということはない。

 小学校教員が,土日にヒマなのはよくわかる。この間に金儲けすれば,家族に還元される,というのもよくわかる。しかし,こういうサイドビジネスがなぜ放置されているのか,私には理解できない。

 私は,表紙に使われた(当時の)小学生たちが不憫でならない。将来(中学校に入って)どうなるかわからない子どもたちが,自分が死んでも顔が晒され続ける事実に抵抗を覚えても,手遅れなのである。文章までまともに読む子どもは少ないだろうが,「編集」された内容を読んだり,「種明かし」された「騙し技」を読んだりして,不快な気持ちにはならないのだろうか。

 子どもを金儲けの道具に使うのはやめてほしい。 

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