AIの技術によって,人々は膨大な量の情報から,自動的に関心の高い情報だけに接して生きていける世の中になった。このことに対して「便利で良い」という脳天気な反応ではなく,「市民」であるための改革案を提示する人もいる。
>選ぶつもりもなかった情報に触れる機会を増やすために,「反対意見ボタン」や「セレンディピティ(偶然の出会い)ボタン」を設定する。
子どもたちが集中できる「よい授業」とは,そんな情報に接することができる時間のことである。
関連のある情報だけを集中的に流し込まれる授業と異なり,雑談にしか思えない情報が実は本質的な問題意識を生むしかけになっているなど,子どもたちが進んで参加できる環境をつくり,その先に「熟議」が起こせるような教材づくりが教師には求められている。
もともと「劣化」するほどの民主主義が根付いていない日本では,「これからの社会づくり」のチャンスには恵まれていると言える。
「都合のよい教師たち」による,「都合のよいカリキュラム」に基づく,自分のためだけにとって「都合のよい学習」から脱するためには,「不都合なこと」で満たされた環境設定が不可欠である。
その「不都合さ」でも,日本の教育現場は都合がよい。
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