教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

仕事術

政治の授業が日本で成立しにくい理由~未来は始められるか?



 サンデル教授本の影響からかどうかは知らないが,日本では大学の先生が(なぜか大学生にやっている普通の授業ではなく)高校生を相手に授業をして,そこでの話を本にまとめるパターンのものがいくつも出版されるようになりました。
 
 高校はかなり偏差値の高い学校に限られ,生徒はなかなかの反応を示していますが,サンデル教授の授業と異なっているのは,生徒の発言が少なく,単発で,ほとんど講師の先生がしゃべっているということです。だから安心して本を読めるという人が多く,そもそも本にして売れるようになるのでしょうが,教育の世界では,とにかくこういう環境から脱却することが求められています。そして,その方向性は「正しい」と信じて疑わない人が多いようです。

 どうしてそこまで思考停止が広がるのかと言えば,「実態」を知るデータが巧妙に隠され,公にはなっているものの,だれもそのデータに注意を向けないことが原因の一つです。データに注意を向けられたくない「出す側」は,「出す時期」にも神経を配りました。

 サンデル教授の特別授業では,参加者の宗教,出身国,活躍している国などが,とてもバラエティーに富んでいます。一方,日本の特別授業は,同じような学力を持ち,同じような大学への進学を目指している同年齢の子どもたちです。日本で政治の授業が成り立ちにくい原因がよくわかります。

 この違いを見ているだけで,日本では「世の中で求められている力」をつけさせようと国が努力しているように見せかけながら,実際には全く効果が出てこない(これが本当の狙い)ままでいる現状がわかります。批判がくれば,攻撃しやすいのは「身内」です。いずれ,教員の能力不足や教員養成の不備に責任を押しつけてくるようになるでしょう。特に,国立大学に出す金を毎年絞り続けていますから,目障りな附属学校はいつでも潰せる状態になっています(ただ残念ながら,まだ今のところは附属学校のブランド力による国民の側からの需要があるのと,附属学校では実績が出せることを全国に示そうと思えば示せるので,存続してしまっています)。
 
 ただ,「身内」を攻撃することで,批判の目が自分に向かないようにする,というやり方を乱用しすぎているため,いずれ自滅するでしょう。「政治」とは,とても怖いものなのです。

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前座としての修行~落語と現代社会



 昔は教師の中に,落語に通って「話術」を磨いた,と語っている人がいたものだが,最近はどうだろうか。「話術を磨く」という範疇であるうちは,おそらく「落語」という世界には入っていない人だったと思われる。
 
 「まくら」で観客の反応をたしかめながら,ネタを決める,という落語家の度胸というか引き出しの多さを体得するまで,教師なら何年くらいかかるだろうか。

 教師の中には,高校や大学では特に,とにかく最初から最後まで,自分が言いたいことを言って終わり,というスタイルの人がいる。その真逆で,ほとんど言いたいことがないために,相手の言葉をオウム返しするしかできない壊れたボイスレコーダーみたいな人もいる。「対話」ができない子どもが増えているのは,そもそも「対話」のない関係を教師と長時間共有し続けたツケなのだろう。
  
 前座の役割とは何か。この弱肉強食の世界で,「自分を殺す」ことの意義に気がつくことのできる環境で生きられる人は少ない。

 本当に理不尽な改革を押しつけてくる,生産能力ゼロの管理者たちをどう消滅させるかが,働き方改革の基本である。

 日本の行政の根本問題は,本物の「前座」らしい仕事をせずに管理職になってしまうことにあることがわかった。

 古典芸能「落語」の奥は深い。何より,弱い立場の人,困り者を「許す」ゆとりを与えてくれる芸は,社会の無駄を大幅に減らしてくれる効果があると思われる。

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問いを磨く習慣をつける



 「空・雨・傘」という3語で行動規範を共有できる組織は強いですね。

 事実を捉え,的確にその意味を解釈し,行動を決めるといった単純で当たり前の流れです。

 ただ,今は「事実」を捉えること自体が難しく,見た目でどうなっているかを解釈するのは簡単ですが,その原因になるものは多様すぎて,想像するしかない場面も多い。だから,とりあえず行動する,という態度を基本原則にする企業まで登場しています。

 とにかく「問い」を磨くこと。

 「いい質問を生むための基本的な姿勢」が指南されていますが,参考にしたいものです。

>相手の反応に注意を向ける
>無邪気な好奇心をもって聞く(自分の考えや思いはいったん脇に置く)
>相手の発言や思いに対してジャッジメントをしない
>素朴な疑問を大切にして質問をする
>「それはなぜ?」と思考と洞察を深めていく


 実際には,逆の状態になりやすいものですが,それをしっかり自戒しながら行動できる人は成長しやすいと思います。

 行政にいると,上記のような態度で接してくれる人はほとんどいません。

 教師の立場でも同様です。

 でも,教師は上のような態度を大事にしたい。・・・こういうことを本当に口にすると,「自分の思い通りにしたいだけだろう」というジャッジが下されるので,「現場」はやりにくいところなのです。

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ホーキング氏が考えていたこと



 21歳の春にALS(筋萎縮性側索硬化症)の診断を受け,余命2,3年という宣告を受けたホーキング氏だが,亡くなったのは今年の3月,76歳だった。

私の目標は簡単だ。それは,宇宙のすべてを理解し,なぜこのようになるのか,なぜ生まれたのかを知ることだ。

 大きな目標の実現に向かって生きてきたホーキング氏の言葉の多くは,至って「普通」のものである。

 中学生にとったアンケートに書かれた言葉と似たようなものもたくさんある。

知識における最大の敵は無知ではなく,知っていると錯覚することだ。

 錯覚している人は多く,間違いに気づかない人も多い。

 自分の実像を理解しようとしない,「前向き」な人が多い一方で,自分を低く見て,いろんなものが足りていない状況に苦しむ「後ろ向き」の子どもも多い。

 ホーキング氏の言葉の中で,反応する人が多かったのは,次のものである。

AIがこのペースで自分自身を開発し続けていけば,生物的進化の遅い人間は,競争する前に追い越されるだろう。

 人工知能は社会を変える力を持つ。

 私たちの中には,科学への信頼感が高くない人もいる。

 学校が開発すべき能力とはどのようなものなのか。模索が続いている社会で,そろそろAIの存在感が出てきてもよいころかもしれない。

 プログラミング教育のレベルでは,きっと「遅れ」ばかりが目立つことになるだろう。

 社会の進化や変化に対応できる力を育成するには,「プログラム化されていないもの」に適応する機会を増やすべきではないか。

 人間関係や環境への不平不満から一歩も先に進めない人たちが自立できるきっかけは,どこにあるのだろう。

 一度,「だれも助けてくれない」という状況を経験することもムダではないような気がする。

 どこかの怪しげで「やった気になる」「わかった気になる」「できた気になる」教育とは,全く逆方向の方法である。

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新聞の人物評価に見る「記者の知性」



 人物の評価というと,私が一番心配にしているのは,日本の受験国語,国語教育,道徳教育である。
 
 ある特定の場面におけるごく限られた言動から,その人物の「人間性」を評価する癖がある。

 特別な状況下における心理を反映した感情や行動の変化はだれにでも起こりうるものであり,人物の性格とか人間性の全体像を示すものではないはずなのだが,「いじめ」の問題に見られるように,「悪口を言った」=「最低の人間」という悪い評価が,「無視されて当然だ」という価値観や具体的な「いじめ」の行動に結びついてしまったりする。

 「人間性」「人物評価」について,最も「知性に欠ける」と思われるときがあるのは,新聞・雑誌等の記者の文章にふれたときである。

前川(喜平)氏に対する新聞の評価というのは面白いですね。産経と読売は,「変な人が言っているから,言ってる内容も変だ」。朝日は,「立派なことを言っているから,言ってる人も立派だ」。でも,そうじゃないですよね。本当は,「変な人が立派なことを言っている」なんです(笑)。女性の貧困を調べるために,お持ち帰りのできる歌舞伎町の店に行く必要は全然ない。だから間違いなく変な人です。ただし,加計学園の文書については真実を語っていた,という話ですよ。(佐藤優氏)

 「読売に記事を書かせた」とされる官房長官が狙っていたのは,「変な人」の言うことは「おかしな内容」「ウソ」に違いない,と感じる「程度の低い国民の脳」を利用することだったのでしょう。「立派な人」(=政権に堂々と楯突ける人)という印象を強く示したい新聞も,利用しているものは同じ。

 本当の「知性」なら,「これだけの情報では,言った人物がどういう人かはわからない」というのが正解でしょう。だから「裏をとらず」「限定された情報のみから」「人間性を評価する」という道徳教育を受け続けたり,国語の問題を解くのが得意になるほど,人間としての「知性」は失われていくわけです。人は,他人を評価するのにもっと慎重であるべきでしょう。自分が道徳の評価を受ける身になれば,だれでもわかることだと思いますが・・・。

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