教育失敗学から教育創造学へ   (読書編) ~子どもの教育に情熱をかける人々のために~ 

小学生と大学生の親です。 このブログでは,読書から得られた発見や視点を中心に,子どもの教育について考えていることを書き綴っていきたいと思います。

道徳教育

文科省をこきおろしている大学のセンセイへ

面従腹背
前川 喜平
毎日新聞出版
2018-06-27


 ビートたけしのように「生き生き」している70代もいれば,私のように「死にかけている」50代もいる。「『さみしさ』の研究」(小学館新書)の中で,たけしは「人は年をとればいろいろと不自由になっていくものだ」という趣旨のことを繰り返し述べている。弱みは弱みとして自覚した上で,かけがえのない強みで生きていく。それは行政マンとしても,教員としても,同じことである。

 『面従腹背』の中で,道徳教育の教科化とその経緯について,前川氏はわかりやすくまとめてくれているが,文科省がその強みを生かして「守りきったもの」に関する記述もある。

 小学校では今年度から始まっている,中学校では来年度から始まる「検定教科書付き道徳」には,実は「最後の防波堤」が効いている。このことに気づいたのは,恥ずかしながら『面従腹背』のおかげだった。

 普通に考えて実現は不可能である「主体的・対話的で深い学び」という新学習指導要領の趣旨には,国による教育支配に対する「最後の防波堤」という役割を期待することができる。

 文科省をこきおろしているある大学のセンセイにも教えてあげたい。

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笑いのネタに関する注意事項



 TVのCMや視聴率が高いバラエティー番組で登場する「痛がりネタ」を想像してみてほしい。

 子どもを一番簡単に笑わせる方法の一つである。

 動画制作で有名な人も,「簡単に視聴者を惹きつけることがネタ」の一つとして「激辛なものを食べて苦しむこと」を例示していた。

 私自身も,大学時代に野球のリーグ戦で頭部への死球を受けた後の,バッターボックスが血の海になった話や病院での縫合手術をネタにして中学生を喜ばせることがある。

 頭部への死球は,命にかかわる危険な事故であり,当たり前だがよければ避けられるものなのだが,「カーブに山を張っていた時のストレート」など,反応がほんの少し遅くなっただけで,気がついたら目の前で星が輝いて何も見えなくなっている自分に気づくものである。

 ブルペンで相当球が暴れているのを直前まで見ていたから,1番打者として,「フォアボールが狙えるな」と思った。しかし,フォアボール狙いだと,気持ちが消極的になり,「弱いチームの戦い方」を見せつけて相手になめられてしまうと思い,気持ちは超攻撃態勢をとった。曲がってど真ん中に入るはずだったボールは,そのまま頭に向けて飛んできた。私は相手のピッチャーを信頼していたのだとも思う。頭に死球が来るタイプの人ではなかった。1年先輩の選手だったが,次のリーグ戦で対戦する前に謝りに来てくれた。「よけなくて余計なご心配をおかけしました」と心ではこちらが謝っていた。

 先月,頭部への死球で高校生が亡くなったそうだ。投球をした高校生は,まだ野球を続けられているだろうか。

 高校野球はまだ戦時中の軍隊のような世界だから(監督やコーチも同じユニフォームを着て戦うことなども含めて),亡くなった子どものためにも,ということで周りが一致団結してさらに士気を高めることができるスポーツかもしれない。

 野球シーズンが終わると,「珍プレー好プレー」を特集した番組が放送される。

 今回,頭部への死球をネタにしたナレーションが批判を受けているらしい。

 そういう批判は,私も受けなければならない。ただ,私自身が話すのではなく,他人が私を茶化すように話題にしていたとしたら,どう思うだろうか。

 野球のボールは,捕手など特に該当するが,急所に当たることがある。これが「事故」になり,子どもができなくなってしまった人がいるかもしれない。

 こういう「想像」ができる人を育てなければならない。だから,笑いにするな,とは言わないが,野球をやっている人間なら,自分がいつ「被害者」「犠牲者」になるかもしれないことを自覚する必要があるし,そういう人がいることを,司会者や識者っぽい人が一言断るべきなのだろう。

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教育勅語復活派の人間不信



 「教育勅語」とは,大日本帝国憲法下での明治天皇の言葉=「勅」である。

 『危ない「道徳教科書」』で寺脇研氏も述べているが,1980年代にある私立高校が教育勅語を生徒に朗読させていた件が問題になったとき,タカ派で知られた当時の文部大臣ですら,

教育勅語そのものの内容については今日でも人間の行い,道として通用する部分もあるが,勅語の成り立ち,性格からいって現在の憲法,教育基本法のもとでは不適切だという方針が決まっている

という答弁を国会でしている(官僚の作文だろうが)。

 今回の釈明会見でも,同じ作文が流用されたはずである。

 保守派のリーダーですら,教育勅語の復活ではなく,それに代わるものが必要だという立場を明かしており,園児に教育勅語を暗唱させるような教育を推奨する人はほとんどいないことがわかっている。

 新しい大臣も,「復活したい」と発言したわけではなく,「いいところを流用したい」という趣旨で述べたかったのだろう。あえて野党に食いつかせて自分が目立ちたかっただけなのかもしれない。

 寺脇研氏は,教育勅語があったから,徳目を身につけることができた,というわけではなく,そんな内容は自然に家庭や地域社会に身に付けられたものだ,と主張しているが,正にその通りだろう。

 ただ,「真の保守」気取りしている人たちの中には,自然に育った徳目が失われているから,道徳を教科にすれば「いじめ」をなくすことができ,教室に「秩序」を取り戻すことができる,と本気で信じている人たちがいる。教育現場に立っていたら,絶対に持つことがない発想である。「教育勅語はすばらしい」と言っている人たちは,だいたいこういうタイプの思考をたどる。

 紹介した本には,「ホンネと建前」の違いが明確に示されており,「道徳」の教科書づくりがいかに難しいかがわかる内容になっている。

日本は中国人が言い出した建前を,中国人以上に実行してしまうところがあります。孔子の言っていることを中国人が「人をだます武器」か,せいぜい建前くらいにしか思っていないのに,日本人は本気で実行しようとします。

 大人社会の「ホンネ」を最も敏感に肌で感じているのは子どもたちである。

 まずは社訓をすべて教育勅語風に改めてもらって,会社がまともに機能するかどうか,確かめてみてもらいたい。

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実質的な国定教科書が生まれた背景がよくわかる

危ない「道徳教科書」
寺脇 研
宝島社
2018-09-01


 すでに小学校では教科としての道徳が始まっているが,私の娘の学校では,「9月から一回も道徳はやっていない」という状況で,微笑ましい限りである。

 前期の通知表には,道徳の所見が記載されていた。
 
 「自由とは人に迷惑をかけないことが大切だということに気づいた」という,本当に自由や責任の意味がわかったのかどうかが怪しい評価だった。こんなことを「気づかせてくれる」時間は必要ないし,「人に迷惑をかけない限り,何をしてもよい」と誤解していそうな情報をわざわざ親に偉そうに伝えてくるのも腹立たしいものである。

 どんな授業だった?と聞いても,「記憶にない」そうだ。

 「あなた(センセイ)はとても不自由な教育をしている上に,親にとって有難迷惑な評価を下している」というのが,我が家の評価である。
 
 「考え,議論する道徳」がただのお題目になっていることは,小学校教育の現状を見ればよくわかる。

 『心のノート』の次に,文科省が10億円かけてつくり,配布した『私たちの道徳』。ここに掲載されている教材の多くが流用された小中の道徳教科書が,実質的に「国定教科書」になってしまっていることを,みんなが知っているが,教科書会社が「考え,議論する道徳」のための教材を「考え,議論する」時間がなかった経緯も,みんな知っている。

 なぜ学習指導要領改訂のタイミングを無視して,前倒しで教育課程に入れたのか。

 過去の道徳の流れも抑えながら,数々の文科大臣の「証言」や「実績」も紹介しながら道徳教科化の経緯がまとめられている本書は,しっかりとしたルポルタージュである。

 本気で道徳を教科化したい人間など,ほとんどいなかったこともわかるし,本書の優れているのは,「こんな道徳の授業をしてはいけませんよ」と文科省が学習指導要領解説で述べている点をきちんと紹介してくれている点である。一部の議員の「独走」「暴走」に「歯止め」をかけている。
 しかし残念ながら,突貫工事で進んだ道徳の教科化は,「お粗末な教科書」の陳列で始まってしまった。決められた価値に誘導できない教材に修正意見がつく,決められた価値に収斂させるために,元の資料の重要な箇所をカットする,などなど,「道徳の授業でやってはいけないことを,教科書の検定や編集ではやっていた」こともバレている。「暴走」議員が道徳的価値である「節度」を守っていないことも示されている。

 田中角栄元首相の児童教育に関する個人的な理念を示した「五つの大切,十の反省」が掲載されている。

1「人間を大切にしよう」
 2「自然を大切にしよう」
 3「時間を大切にしよう」
 4「モノを大切にしよう」
 5「社会を大切にしよう」

 1「友達と仲良くしただろうか」
 2「お年よりに親切だっただろうか」
 3「弱いものいじめをしなかったろうか」
 4「生き物や草花を大事にしただろうか」
 5「約束は守っただろうか」
 6「交通ルールは守っただろうか」
 7「親や先生など,ひとの意見をよく聞いただろうか」
 8「食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか」
 9「ひとに迷惑をかけなかっただろうか」
 10「正しいことに勇気をもって行動しただろうか」


 これらを守ってくれていても,金権政治は防げなかった。

 「徳目」とは,そもそも学校で考えたり議論したりする必要があるものなのか。

 道徳科を最もボイコットしたいのは文科省,次に子どもと学校の教員,そして保護者たちという順番なのだろうが,保護者たちがトップに出てくるくらいの親の気概がほしい。

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新聞の人物評価に見る「記者の知性」



 人物の評価というと,私が一番心配にしているのは,日本の受験国語,国語教育,道徳教育である。
 
 ある特定の場面におけるごく限られた言動から,その人物の「人間性」を評価する癖がある。

 特別な状況下における心理を反映した感情や行動の変化はだれにでも起こりうるものであり,人物の性格とか人間性の全体像を示すものではないはずなのだが,「いじめ」の問題に見られるように,「悪口を言った」=「最低の人間」という悪い評価が,「無視されて当然だ」という価値観や具体的な「いじめ」の行動に結びついてしまったりする。

 「人間性」「人物評価」について,最も「知性に欠ける」と思われるときがあるのは,新聞・雑誌等の記者の文章にふれたときである。

前川(喜平)氏に対する新聞の評価というのは面白いですね。産経と読売は,「変な人が言っているから,言ってる内容も変だ」。朝日は,「立派なことを言っているから,言ってる人も立派だ」。でも,そうじゃないですよね。本当は,「変な人が立派なことを言っている」なんです(笑)。女性の貧困を調べるために,お持ち帰りのできる歌舞伎町の店に行く必要は全然ない。だから間違いなく変な人です。ただし,加計学園の文書については真実を語っていた,という話ですよ。(佐藤優氏)

 「読売に記事を書かせた」とされる官房長官が狙っていたのは,「変な人」の言うことは「おかしな内容」「ウソ」に違いない,と感じる「程度の低い国民の脳」を利用することだったのでしょう。「立派な人」(=政権に堂々と楯突ける人)という印象を強く示したい新聞も,利用しているものは同じ。

 本当の「知性」なら,「これだけの情報では,言った人物がどういう人かはわからない」というのが正解でしょう。だから「裏をとらず」「限定された情報のみから」「人間性を評価する」という道徳教育を受け続けたり,国語の問題を解くのが得意になるほど,人間としての「知性」は失われていくわけです。人は,他人を評価するのにもっと慎重であるべきでしょう。自分が道徳の評価を受ける身になれば,だれでもわかることだと思いますが・・・。

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